【村井敏邦の刑事事件・裁判考(56)】
司法関係資料の保存について――松川事件関係資料を例として
 
2016年3月24日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)

司法関係資料の保存をめぐって

 司法関係資料は、各地、各大学の資料室や図書館に保存されています。筆者が前に勤めていた龍谷大学でも、矯正保護センターを設置した時に、正木弁護士の所蔵資料の寄贈を受け、正木文庫として保存しています。以来、帝銀事件関係資料を含め、司法関係資料の寄贈を受けて、保存をしています。そのほか、松本の司法資料館にも白鳥事件関係資料などが保存されています。後に述べるように、福島大学の松川資料室にも保存されています。
 これらの司法関係資料については、その管理・保存のために人的資源と財源が必要なのですが、それが十分でなく、どの施設でも、今後どうするかに頭を痛めているのが、実情です。ここでは、ユネスコの世界記憶遺産への登録を目指している松川事件関係資料を中心として、この問題を考えてみます。

松川事件について

 東北本線を福島駅から南福島と南下し、さらに金谷川駅を過ぎて松川駅に向かう途中の線路右側の丘陵のふもとに、全長九メートルの塔が建てられてあるのが見えます。その塔には、「松川の塔」と記され、その下に次のような一文が書かれています。

    「1949年8月17日午前3時9分 この西方200米の地点で、
    突如、旅客列車が脱線転覆し、乗務員3名が殉職した事件が起った。
    何ものかが人為的にひき起した事故であることが明瞭であった。
    どうしてかかる事件が起ったか。
    朝鮮戦争がはじめられようとしていたとき、この国はアメリカの占
   領下にあって吉田内閣は、二次に亘って合計9万7千名という国鉄労
   働者の大量馘首を強行した。かかる大量馘首に対して、国鉄労組は反
   対闘争に立上った。
    その機先を制するように、何者の陰謀か、下山事件、三鷹事件及
   びこの松川列車転覆事件が相次いで起り、それらが皆労働組合の犯
   行であるかのように巧みに新聞、ラジオで宣伝されたため、労働者
   は出ばなを挫かれ、労働組合は終に遺憾ながら十分なる反対闘争を
   展開することが出来なかった。
    この列車転覆の真犯人を、官憲は捜査しないのみか、国労福島支
   部の労組員10名、当時同じく馘首反対闘争中であった東芝松川工
   場の労組員10名、合せて20名の労働者を逮捕し、裁判にかけ、
   彼等を犯人にしたて、死刑無期を含む重刑を宣告した。この官憲の理
   不尽な暴圧に対して、俄然人民は怒りを勃発し、階層を超え、思想を
   越え、真実と正義のために結束し、全国津々浦々に至るまで、松川被
   告を救えという救援運動に立上ったのである。この人民結束の規模の
   大きさは、日本ばかりでなく世界の歴史に未曾有のことであった。救
   援は海外からも寄せられた。
    かくして14年の闘争と5回の裁判とを経て、終に1963年9月
   12日全員無罪の完全勝利をかちとったのである。
    人民が力を結集すると如何に強力になるかということの、これは人
   民勝利の記念塔である。」

 ここに書かれている列車転覆事故と、この事故を起こした犯人として逮捕され、裁判にかけられた人々の法廷闘争の結果、全員無罪となった事件が、松川事件です。

松川事件と関係資料の保存

 「松川の塔」に書かれているように、松川事件で起訴された人々の無罪が確定するまで14年間の歳月が流れます。その14年間の流れを簡単にみていきましょう。
 事件は戦後4年経った1949年8月17日未明に起きます。当時は夏時間が施行されていて、夏は、通常よりも1時間早くなります。その夏時間で午前3時9分、現在でいえば、午前2時9分に、青森発奥羽本線回り上野行き上り第412列車が、東北本線金谷川駅を出発して松川駅に向かう急カーブの地点で、突然、脱線転覆しました。この事故によって、先頭のC51型機関車に乗務していた機関士の石田正三と機関助士の伊藤利市の二人は全身打撲と火傷のショックで即死、もう一人の機関助士の茂木政市は右半身複雑骨折と全身出血のため救出中に死亡しました。その他、乗客乗務員10人程度軽傷。一本の外側レールの継ぎ目板と犬釘が抜かれ、そのためにレールが外れて脱線事故を引き起こしたということがわかりました。人為的な事故であることは明瞭です。
事件当初から、捜査機関のみならず、報道機関も、集団的な思想的傾向の事件として、扱っていきます。事故当日の午後1時には、福島地検検事正と国警福島県本部隊長の記者会見では、「今度の事件は明らかに玄人の計画的犯行であり、鉄道内部の事情を知っている者の犯行である」と発表され、さらに、翌18日正午の官房長官記者会見は「今回の列車転覆事故は、集団組織をもってした計画的妨害行為と推定される。その意図するところは、旅客列車の転覆によって被害の多いことを期待したもので、この点、無人列車を暴走させた三鷹事件より更に凶悪な犯罪である。」と発表しました。
 この方針のもと、地元の労働組合関係者が次々に逮捕されました。戦後政情の不安定性とともに、労働運動も盛んで、当局はその対策に頭を悩ましていました。その上、官房長官の談話にもあるように、当時、三鷹事件、下山事件などの列車関連事件が発生し、それがすべて思想的背景のもとに起こされた事件として、当局は、とくに共産党系労働組合に焦点を絞り、捜査をするという状況でした。
 10人の人が逮捕・起訴され、被告人たちはアリバイを主張して争ったのですが、裁判所は聞く耳を持たず、死刑を含む重罰が言い渡され、地裁、高裁ともに有罪となりました。最高裁判所への上告中、偶然の機会に捜査官の手元に、被告人たちのアリバイを証明するメモがあることがわかり、それが裁判所に提出されて、被告人たち全員の無罪確定となりました。この間、14年間。
 事件関係資料は膨大なものとなり、その資料は、福島大学松川資料室に保存されることになり、現在に至っています。

ユネスコ世界記憶遺産登録について

 松川資料室には、最近、東北大学が保管していた松川事件の被告人たちのアリバイ証拠となった諏訪メモの寄贈を受けました。この諏訪メモをはじめ、貴重な資料が保存されており、戦後の労働運動への弾圧の歴史、冤罪の歴史、さらには、評論家広津和郎を中心とした言論人の裁判批判の問題など、司法関係者だけではなく、また、日本人だけでなく、世界的にも関心を持たれる資料があります。
 そこで、松川事件関係者を中心として、ユネスコ世界記憶遺産登録の話が出ました。
 ユネスコ世界記憶遺産には、世界では、アンネの日記やマグナカルタ(いずれも2009年登録)などが登録されています。しかし、日本では、炭鉱画家山本作兵衛の筑豊の炭鉱画が登録(2011年)されて、初めてこの遺産の存在を知ったという人が多いと思います。実は、筆者もその一人です。昨年は、『舞鶴への生還 1945−1956シベリア抑留等日本人の本国への引き揚げの記録』と『東寺百合文書』が登録され、日本でもこの遺産の認知度が広がりました。
 世界記憶遺産に登録するためには、いくつかの条件をクリアしなければなりません。中でも、重要なことは、資料がオリジナルなものでなければならないということです。その点で、裁判記録を中心とした司法資料では、この点の条件をクリアするのは難しいと思われます。したがって、松川事件関係資料の中で、どの程度オリジナルなものがあるのか、厳選が必要となります。その作業を含めて、登録のためには今後の時間が必要です。他の施設からの協力も必要でしょう。
 前途は必ずしも平らではないでしょうが、貴重な資料の保存への動きが多くの人の関心を呼ぶことによって、松川事件をめぐる問題が知れ渡り、冤罪問題への関心の深まりはもちろん、戦後の歴史の見直しにつながるのではないかと、秘かに期待しています。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。