【村井敏邦の刑事事件・裁判考(30)】
沖縄返還密約事件
 
2013年12月2日
村井敏邦さん(大阪学院大法科大学院教授)
 
「足おと」

 「国民は、……日ごとにがっがっと地ひびきのような音をたてて近づいてきた軍靴の足おとを聞いていた。意識の底に眠っていたあの不気味な足おとが、近頃日ごとに大きくなって、私の耳に近づいてくる。」
 11月24日付の京都新聞朝刊に載せられた、瀬戸内寂聴さんの「足おと」というタイトルの文の一節です。 91歳6か月の寂聴さんは、この文を次のように締めくくっています。
 「秘密保護法案などという怪しいものがまかり通っては、まさにあの不吉な戦争前の足おとがよみがえる。もしかしたら私の長生きは、そのことを今の若者にしっかり告げよというはからいの命なのだろうか。」
 私は、寂聴さんに比べて20歳近く下ですので、直接軍靴の音を経験していません。しかし、疎開を経験し、終戦後に満州から父親が命からがら引き上げてきたという経験をもっています。終戦直後の生活の苦しさ、進駐軍のMPによる言論統制の怖さは、子供心にも身に染みています。
 警察予備隊から保安隊を経て、自衛隊となるのも、私にとっては同時代史の一つです。徴兵制になったらどうするか、というのは、小学校高学年になった私たちにとっては、他人事ではなかったのです。「軍靴の足おと」を身近なものとして感じ得た最後の世代に属していると言ってよいでしょう。
 特定秘密保護法案の強行採決に見る政府・自民党の動きに対して、不吉な足おとを感じるのは、寂聴さんと同様です。

「秘密の漏示」と「取得」

 特定秘密保護法案は、防衛、外交、特定有害活動の防止、テロリズムの防止という4つの事項に関して、行政機関の長が特定秘密の指定を行い、指定された秘密を漏らす行為と、その秘密を取得する行為を処罰することにしています。過失によって漏らした場合にも、処罰され、漏らしたり、取得したりする行為の未遂はもちろん、それらの行為をすることを共謀し、教唆し、扇動すれば、そのような行為が現実になくとも処罰されることになっています。提案者は、4つの事項に限定したといっていますが、その内容は明確ではありませんし、処罰範囲は広すぎます。
 こうした点は、刑法の基本原則である明確性の原則に反し、罪刑法定主義に違反します。私も加わって刑事法学者の意見書を発表していますが、刑事法学者としては、刑事法の基本原則を踏みにじるような法案に賛成することは、到底できません。
 法案の問題点については、上記の意見書などを見てもらうとして、ここでは、この法案が成立した場合に、どのような事態が予想されるかを考えるために、国家公務員法の秘密漏示罪が問題になった沖縄返還密約事件を見ることにします。

沖縄返還密約事件の発覚から裁判まで

 1969年11月、日米の間で、佐藤栄作=ニクソン共同声明が発表され、その中で、沖縄の施政権を日本に返還することが約束されました。この共同声明に基づいて、1971年6月17日、沖縄返還協定に調印が行われ、沖縄は正式に日本に返還されることになりました。
 この返還交渉には、日本側が米国に対して一定の金額の支払いを行うという密約があったのではないかという疑いがもたれていました。協定調印前の6月11日、毎日新聞社の西山太吉記者は、密約の存在をにおわす記事を署名入りで発表しましたが、時の外務大臣は、「裏取引はまったくない」と密約の存在を否定しました。
 ところが、1972年3月27日の衆議院予算委員会で、社会党議員の横路孝弘氏が密約の存在を示す外務省極秘電文を公開し、密約の存在を追求しました。これによって、密約がないと言ってきた政府の言が嘘であるということで、マスコミ世論は、当初、政府批判を激しくしたのですが、国会での電文公開後、だれが漏らしたのかという犯人探しが行われ、4月4日、外務省の秘書と西山記者が国家公務員法上の秘密漏示罪で逮捕されました。
 これ以後は、密約の内容よりも、漏らした公務員と記者の追及が厳しくなり、国会で公表した横路氏へも尾行がつくなど、議会活動にも支障の出るほど、平常の生活が不可能になってきました。
 その状態は、公務員と記者の起訴によって一層厳しいものになりました。それは、起訴状に、西山記者が機密を取得する目的で、公務員と「ひそかに情を通じ、これを利用して」という文言が入ったために、男女関係を利用して秘密を取得したという取得の方法にマスコミの関心が移ったためです。
 本来は、密約があったのかどうか、その内容はどのようなもので、国民に秘密にする必要のあったものなのかというようなことが問題だったはずなのですが、焦点は完全にずれてしまったのです。

裁判の経過

 裁判では、西山記者は、報道の自由を前面に出し、公務員に対して外交文書をひそかに取得するようにそそのかす行為は、報道のための正当な行為であると主張しました。その結果、第1審は、公務員を有罪としましたが、西山記者は無罪としました。検察側は、西山記者について控訴し、控訴審である東京高等裁判所は、西山記者の行為を正当とは認めず、公務員に職業上得た秘密の漏示をそそのかした罪で有罪としました。
 1978年5月30日、最高裁判所は、記者に取材の自由があることは認めながら、それは無制限ではないとして、「当初から秘密文書を入手するための手段として利用する意図で女性の公務員と肉体関係を持ち、同女が右関係のため被告人の依頼を拒み難い心理状態に陥つたことに乗じて秘密文書を持ち出させたなど取材対象者の人格を著しく蹂躪した本件取材行為は、正当な取材活動の範囲を逸脱するものである」として、西山記者の上告を棄却しました。

最後まで秘密の存在、内容は「秘密」のまま

 上記の事件では、秘密とされた密約の存在については、政府は最後までそのような密約はないと言明していました。裁判においても、外交文書の漏示とそのそそのかし行為が処罰されたのですが、本当にそのような密約があったのか、その内容はどんなものなのかは、ついに明らかにされませんでした。秘密指定された文書が漏示された、あるいは漏示するようにそそのかしたということだけが問題にされたのです。
 特定秘密保護法案が制定された後、予想される事態もこの事件と同様です。指定された秘密の内容や秘密指定の妥当性よりも、その秘密が洩らされた、または漏らすように共謀し、教唆した行為が問題となり、その犯人探しが行われる。犯人探しの前には、秘密の内容の追及、国民に重大な利害をもたらす事項を国民に明らかにしないことに対する政府の責任問題は、どこかに棚上げにされてしまいます。
 そんな状態で裁判ができるわけがないと思う人もいるでしょう。本来は、処罰されるべき行為が秘密の漏示であり、その取得である場合には、その秘密の内容が「秘密」のままでは裁判の対象がわからないのですから、裁判はできません。しかし、それが「秘密」指定されている限り、指定を解除しなければ、公開することができないのです。秘密指定したまま、このような行為を裁判するために、秘密の内容を明らかにしないで、指定された秘密があり、それへのアクセスが試みられたということだけを証明すればよいとする立証の方法がとられ、裁判所もそれでよいとしています。
 いったいこのようなことでいいのでしょうか。軍事的な秘密のベールは一層厚くなるでしょう。文字通り、「秘密裁判」を認める法律が成立した世界を考えるだけで、恐ろしいことです。それが、軍事化への地ならし的なものである場合には、恐怖は一層深くなります。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。