濡れ衣を着せられた父の無念を晴らしたい  
2012年6月11日
阪原弘次さん(日野町事件再審請求人)
写真は国民救援会提供

―――1984年に居酒屋の女性店主が殺害された事件(日野町事件)で阪原弘さんが逮捕・起訴され、無期懲役の刑が確定しました。弘さんは公判で無実を訴え続け、刑の確定後も再審請求をしていましたが、昨年服役中にお亡くなりになりました。
 今春、弘さんのご長男でいらっしゃる弘次さんは、お母様などご遺族とともに、弘さんの無念を晴らしたいと再審請求をなさりました。弘さんの裁判の経過には大きな問題点があると思われます。お父様の裁判の経過を追いながら、弘次さんのお考えを聞かせてください。

(阪原弘次さん)
 いま振り返ると、裁判所は本当にひどい判決を繰り返してきたのですが、父も私も当初は裁判というものがよくわかりませんでした。というより、裁判官というのは頭のいい人で、偉い人だと思っていました。公平に裁いてくれる人たちだろうという印象がありました。しかし、第一審で有罪判決が出ましたので、「違うな」と感じ始めることになりました。
 そして、第二審も有罪でした。第二審の判決は、盗まれたとされる金庫と別の金庫を明らかに混同する、杜撰な内容でした。また、第一審は「自白」は信用できないと判断しながら状況証拠によって有罪を認定できるとしたのですが、第二審は状況証拠のみでは有罪とできないと判断しながら、「自白」が信用できるからと有罪としました。どうなっているんだ、と思うようになりました。

―――当初は裁判所を信用する気持ちが強かったということですが、警察や検察についてはどのような印象を持っていたのでしょうか。

(阪原弘次さん)
 父も私も、警察や検察を基本的には信用していました。
 父が逮捕されたのは事件から3年後なのですが、逮捕されるのではないかと噂が流れ始めても、父は、警察はわかってくれるはずだと信用していました。
 父が逮捕され、起訴された後、私は検察官の事情聴取を受けましたが、その検察官も穏やかな方で、気さくなところもあって、いい人のように感じました。
 この事件に巻き込まれるまで、父も私も、警察官や検察官がどんな仕事をしているのか、裁判所とはどういうところなのか、ということを知る機会がほとんどありませんでしたので、よくわからずにその人たちの話を聞いていたように思います。

―――しかし、やがてお父様の裁判の不当性に気づいていくことになったのですね。

(阪原弘次さん)
 高裁の判決が出されて以降、父の裁判への支援の輪が広がったんです。私は日本国民救援会がえん罪に苦しむ人たちの支援活動をしていることを知り、救援会は父の裁判への支援も始めてくださったんです。
 そうすると、私は他のえん罪事件のことなどもいろいろな方から教えてもらうことになり、裁判所は必ずしも公平な判断をしてくれるところではない、ということを知ることになりました。そして、父の裁判においても、たとえば高裁の裁判官が犯行現場や犯行時刻を特定できないとして、検察官に対してそれらをぼかした書面を提出させて有罪判決を出したと聞き、なんとひどいことをするんだろうと憤りました。犯行現場や犯行時刻を特定できないのであれば無罪にしてもおかしくないはずです。

―――警察の捜査はどのような状況だったとお父様は言っておられましたか。

(阪原弘次さん)
 先ほど申したように、父はもともと警察も信用していたんです。しかし、実際の取り調べはひどかったと言っています。取り調べでは、はじめから犯人扱いされたそうです。頭を小突かれたり、椅子を蹴飛ばされたりし、また警察官は交代で怒鳴り散らしたそうです。父は警察に出頭する時に入れ歯を外していきました。どうしてかと尋ねると、小突かれるので外していった方がいいんだと言っていました。それほどひどい取り調べだったようです。

―――そのお父様が亡くなられ、いまご遺族で再審請求をなさったわけですが、いまのお気持ちをお聞かせください。

(阪原弘次さん)
 父の裁判では、早く無罪の父を家に帰してあげる、父を取り戻すことを目標に私たち家族は頑張りました。しかし、父が死に、もはやそれは不可能となりました。私たち遺族は今後何を目標にしていくのか、まだはっきりしていないところがあります。
 ただ、無実の主張が認められず、ずっと収監されて家に帰れず、父は本当に無念だったろうと痛切に思います。父にそのような仕打ちをした裁判所への怒りを強く感じます。この怒りを裁判所にぶつけていき、なんとか父の無念を晴らしたいと思っています。

―――裁判所には本当に公正な判断をしてもらう必要があることを、阪原さんのお父様の裁判の経過からもよくわかりました。阪原さんの再審請求にも裁判所が公正に判断することを願います。本日はありがとうございました。