社会的弱者の人権に配慮する司法へ  
2012年1月30日
矢澤f治さん(辯護士・専修大学法科大学院教授)
―――矢澤さんは国際私法や国際民事訴訟法などを研究なさっていますが、冤罪など刑事司法についてのご著書も出されています。なぜ冤罪問題などに取り組まれていらっしゃるのか、そこからお聞かせください。
(矢澤さん)
 私は以前大学院で「法曹倫理」の講義をする機会がありました。通常「法曹倫理」では双方代理とか秘密保持というような、弁護士と依頼人との関係などを中心に講義をするのですが、私はそれだけでなく、日本の司法の公正さという問題を深く抉ることが重要だと考えました。そして、実際の裁判を過去に遡って検証することにしたのです。戦後まもなくの冤罪事件である菅生事件から始めました。その時には後藤昌次郎弁護士や渡辺千古弁護士そして作家の伊佐千尋さんなど多くの方々にも協力していただきました。当時専修大学には庭山英雄先生や小田中聰樹先生がおられ、冤罪に造詣の深いお二人の教授からのお話しや研究そして実務に強く感化されたということがありました。
 国際私法や国際民事訴訟法の研究者がなぜ冤罪のことに注目したのか、ということですが、私は、法律家が研究者であると実務家であるとを問わず、常に人権感覚を磨ぎ、とくに社会的弱者の人権を守ることに心がけるべきだと考えています。ですから、私の専門である国際民事訴訟法の研究においても、社会的弱者の人権に配慮しない理不尽な法制度の問題点の指摘などをしてきました。たとえば、多くの国の国際民事訴訟法には自国民を相手国の国民よりも有利に取り扱う制度や内容が含まれています。国際裁判管轄権の決定や訴訟費用の担保義務などです。また、今日では改正されましたが、民事訴訟法ではかっては外国の裁判所で自国民が敗訴したとしても、その国民の利益を保護するために自国内ではその効力を認めないという取り扱いもあったのです。私はこうした不正義に目を瞑ってはならないという考え方を持っていました。その感覚から、フランスの国際民事訴法を研究テーマにしてきました。それを『フランス国際民事訴訟法の研究』(創文社)にまとめました。この内外人の平等の発想が、冤罪問題にも深く浸透するようになってきたのかもしれません。
 私はその後専修大学の今村法律研究室の室長を務めることになりました。ここで4年間冤罪問題を取り扱い、そのテーマでシンポジウムを開催し、その記録を出版しました。それが『冤罪はいつまで続くのか』(花伝社・2009年)です。正確に言えば、弱者とはいえないかもしれませんが、意識の無い患者に対する医療行為に対する医師の刑事事件の上告審も担当しました。須田先生の殺人事件ですが、私は、医師としての正当な対応をしてきたと上告理由に書きました。しかし、殺人罪の認定という結果となったことはご承知のとおりです。このことは、『殺人罪に問われた医師』(現代人文社)に書きましたが、人間の生死に対する法の論理と医の倫理に乖離があると指摘したのです。

―――矢澤さんは冤罪をめぐる状況を明らかにしながら日本の刑事司法の問題点を指摘されていますが、弁護士として民事裁判にもたずさわってきたと思います。刑事裁判をめぐる問題点は民事裁判とは異なるものなのでしょうか。あるいは日本の裁判所の問題点は刑事裁判も民事裁判も共通しているとお考えでしょうか。
(矢澤さん)
 英米法の国では、刑事裁判でも民事裁判でも同じように証拠にもとづく事実認定をして法律を適用する、ということですので、懲罰的損害賠償事件に例示されるように、刑事裁判と民事裁判を区別して論じることには若干違和感があります。しかし、日本の法律は大陸法系なので、刑事裁判と民事裁判には異なる取り扱いがされております。特に刑事裁判では証拠の収集などは圧倒的に捜査側が有利であり、被告人に有利な証拠は隠されたままです。わが国では、根本的に、ディスカバリ−=証拠開示の制度が不十分であるのです。しかも、裁判員制の下では、審理の期間は短く、いわゆる調書裁判になっており、被告人が法廷で無実を主張してもほとんど裁判官には聞き入れられない状況です。これが冤罪を作り続けてきた根源であると思います。
 ただ、司法の世界では、社会的弱者の声が裁判官に理解してもらえないというのは民事事件にもあてはまると思います。医療過誤訴訟ではなかなか患者側の主張が通らず、原発差し止め訴訟でも住民側はことごとく負けてきました。憲法に関わるような事件でも社会的に弱者とされる側が勝つことはあまりありません。なぜかは分かると思いますが、最高法規としての憲法が司法からきちんと適用・解釈されていないという傾向です。このような状況は日本に限らず、多くの国でも同様の傾向があると思いますが、とても残念に思います。

―――矢澤さんはいま、法科大学院での教育にもたずさわっています。公正な裁判、社会的弱者の人権の擁護、などについての矢澤さんの考えは院生たちにどのように伝わっているのでしょうか。これからの法曹養成の課題についての矢澤さんのお考えをお聞かせください。
(矢澤さん)
 法科大学院生はなんとか司法試験に合格しようと必死であり、じっくりと司法改革などを考える余裕がない現状があります。私たちが学生の頃には冤罪事件などにもある程度の関心がありましたが、最近の学生はあまり冤罪のことを知る機会がありません。余裕のある教育を目指して、法科大学院と司法試験の制度の抜本的な改革が必要であると思います。
 ところで、今般の司法制度改革で法律家の増員がはかられました。私は法律家を増員すること自体は賛成ですが、それが弁護士の増員に偏重していることは問題であり、裁判官や書記官、調査官、通訳人などの総体における人材の増員が必要であると思います。この間の改革は、全体として日本の司法をアメリカ型にしようというものですが、皮相に過ぎます。私はアメリカと日本の制度や考え方の様々な違いを考慮し、法曹人口の増員のあり方を慎重に検討すべきだと考えます。司法改革はヨーロッパでもすすめられてきました。ヨーロッパでは、そのための確かな哲学があります。司法へのアクセス拡大についても1970年代から「Justice with a Human Face」という考え方の下で、数多くの改革が脈々とすすめられてきました。私たちは、こうした経験に学ぶ事も、改革を行う上で必要不可欠であると考えております。

―――示唆に富むお話し、ありがとうございました。
【矢澤f治さんのプロフィール】
金沢大学法文学部法律学科卒業。ストラスブール第三(ロベール・シュウマン)大学第三博士課程退学、東北大学大学院法律研究科私法学専攻博士後期課程退学。
熊本大学法学部専任講師を経て、現在、専修大学法科大学院教授(「国際私法」、「国際民事紛争解決」、「環境法」を担当)。
1992年弁護士登録(東京第二弁護士会)、現在、人権擁護委員会、環境保全委員会所属。
主な著書:『環境法の諸相』(専修大学出版局)、『殺人罪に問われた医師』(現代人文社)、『冤罪はいつまで続くのか』(花伝社)、『袴田巌は無実だ』(花伝社)、など