『裁判を住民とともに』(1)  
2011年6月13日
板井優さん(弁護士)

―――板井さんはこのたび『裁判を住民とともに ヤナワラバー(悪ガキ)弁護士奮戦記』(熊本日日新聞社)を上梓されました。この本を読み、司法を市民本意のものに改革していく上で板井さんのこれまでの体験の中には様々な教訓があると感じ、インタビューをさせていただくことにしました。よろしくお願いします。
  板井さんはこれまで様々な裁判にたずさわってきましたが、住民・原告の皆さんは司法・裁判というものにどのような期待をしていたのでしょうか。特に印象に残っていることからお聞かせください。

(板井さん)
  私は熊本で水俣病問題の裁判に長くたずさわってきました。熊本には水俣病に苦しむ患者が多数おり、加害企業であるチッソと国などに対して患者=被害者への賠償を求める裁判をしてきたのです。水俣病第三次訴訟にあたって、私たち弁護団は多数の患者に裁判の原告になってもらおうと患者たちをまわりました。1979年のことですが、御所浦という島の人たちが初めて原告になりました。漁民である浜崎初彦さん(故人)が御所浦島の原告の人たちの世話人になってくださいました。その時期御所浦島でも、人々の中で「国相手に裁判をして勝つものか」ということが囁かれており、ある晩浜崎さんの漁船が何者かに沈められる事件が起こりました。しかし、浜崎さんはそれにたじろぐことなく、やはり裁判所には訴えなければならないとの決意を語りました。私は浜崎さんの決意に驚くべきものを感じました。
  私は川辺川利水事業をめぐる裁判にもたずさわりました。1994年に農水省がダム建設のために対象農家約4,000戸に対して建設への同意をとりつけ始めました。農水大臣は9割の農家の同意をとりつけたというのですが、ダムができれば水代がタダになるのだといって、農水省はいつのまにか農家が同意したことにしている、といって村の教育長をしていた梅山究さんたちが私を訪ねてきました。農家の同意をとりつける農水省のやり方は不当ではあったのですが、たしかに一定数の住民が同意していました。裁判所に訴えるということになれば、村八分にされるかもしれません。梅山さんは悩まれましたが、提訴に踏み切りました。梅山さんは「平成の百姓一揆」だといって、この裁判で勝訴しました。梅山さんにも、住民の裁判所に対する大きな期待を見ました。
  私は、ハンセン病をめぐる裁判でも住民の皆さんの力とエネルギーを強く感じました。2001年、熊本地裁はハンセン病回復者を強制的に隔離してきた国の政策を違憲と認定する、画期的な判決を出しました。この判決後、原告と弁護団は国に控訴させまいと手を尽くしました。その一つとして、当初は提訴していなかった方々に追加提訴をしてもらうことにしました。その数は約1,000人になりました。その時のことですが、ハンセン病回復者の方々が「熊本地裁の判決を聞いて自分たちは解放されたと思った。しかし、控訴されたら判決はただの紙切れになる。もう紙切れにはしたくない」と訴えたのです。この動きが当時の小泉首相の控訴断念につながりました。ハンセン病回復者の方々の裁判への期待の声にも考えさせられることになりました。

―――板井さんは南九州税理士会事件の裁判にもたずさわり、牛島昭三税理士(故人)の勝訴をかちとっています。この事件と牛島税理士のこともお聞かせください。
(板井さん)
  1979年ですが、税理士を大型消費税の徴収人にしようとする税理士法「改正」の動きがありました。そして、南九州税理士会がその法「改正」を推進する特別会費を会員から徴収することにしました。しかし、その会員である牛島税理士は「法を金で買うようなことは許せない」として特別会費を払いませんでした。そうしたら、牛島税理士は税理士会での選挙権を剥奪されてしまいました。牛島税理士は裁判所に提訴し、この特別会費はいわば政治献金をすべての会員に強制することにほかならず、それは会員の思想信条の自由に反する、憲法に違反するとして、最終的に最高裁で勝訴しました。自分が所属している税理士会とたたかう牛島税理士の決意とエネルギーにはただただ驚嘆するばかりでした。

(次号に続く)

 
【板井優(いたい まさる)さんのプロフィール】

弁護士。水俣病訴訟弁護団事務局長、ハンセン病西日本弁護団事務局長、川辺川利水訴訟弁護団団長、元全国公害裁判弁護団連絡会議事務局長および幹事長、などを歴任。
2011年3月、『裁判を住民とともに ヤナワラバー(悪ガキ)弁護士奮戦記』(熊本日日新聞社)を上梓。