『公害裁判』を語り継ぐ(2)  
2010年12月13日
島林 樹さん
(弁護士)
前回からの続き

―――イタイイタイ病訴訟の弁護団には、地元・富山の弁護士のほかに、東京や金沢、名古屋、関西の弁護士などが多数参加しました。島林さんも現地の被害者といっしょになって活動されました。弁護団の方々はどのような思いを持っておられたのか、お聞かせください。
(島林さん)
イタイイタイ病訴訟では、住民運動などの経験も豊富だった近藤忠孝弁護士などが東京から富山に移住し、私も東京弁護士会から富山弁護士会に登録換えをして、地域住民とともにたたかいました。そして、全国各地の弁護士が富山にかけつけ、手弁当で訴訟にあたりました。
やがて、被害者のみなさんが弁護士の宿泊を受け入れてくれるようになりました。この「弁護士の民宿」は全国的に初めての試みで、画期的でした。それは弁護士が被害者の方々との信頼関係を深めるとともに、被害に関わる埋もれた証拠を収集する場にもなりました。
イタイイタイ病の痛みに耐えかねて自殺をはかろうとした妻を夫が叱り、抱き合って泣いたという証言が法廷で語られましたが、これも「弁護士の民宿」の中で聞きだしたことでした。
私はイタイイタイ病訴訟の後、東京の横田基地航空機騒音訴訟にもたずさわりましたが、ここでも弁護士が地域の住民とともに暮らしながら、たたかいがすすめられました。イタイイタイ病訴訟は弁護士と被害者=地域住民との連携という点でも、その後の様々なたたかいに示唆を与えることになったと思います。

―――この10年くらいの間、様々な司法制度改革がすすめられてきましたが、イタイイタイ病訴訟での被害者と弁護士のたたかいには、司法改革を考える上で様々な教訓があるように感じます。島林さんのお考えをお聞かせください。
(島林さん)
イタイイタイ病訴訟を提起するにあたって弁護団は被害者の方々から訴訟委任状を集めることになり、私もある患者の家に行きました。私はまず、勝訴の見込みや訴訟費用のことなどを話さなければならないと思っていったのですが、お会いした老女は「私は老い先が短い。この裁判を起こしても、あるいは途中で死んでしまうかもしれない。しかし、あの痛みが再び嫁や娘を襲うと思うと黙ってはおられない。三井の責任を認めさせるには裁判でも何でもやってほしい」と炬燵から這い出してきて委任状に署名したのです。私は、人のために生きるというこの老母の言葉・姿勢に大変感銘を受けることになりました。
被害者の人たちの願いは、三井は申し訳なかったという一言を言って欲しい、ということに尽きるものでした。それは決してお金を欲しいということではありません。弁護士には、そのような被害者の叫びに対して、「こんなことが許されていいのか」という正義感を抱けるかどうかが問われるのだと思います。
その後も私は依頼者たちから、「先生が頑張ってくれて、仮にそれで裁判に負けても、それならば納得する」と言われるときに、本当に弁護士冥利に思います。

―――本日は有意義なお話しをしていただき、ありがとうございました。

 
【島林樹(しまばやし たつる)さんのプロフィール】
1933年、富山市に生まれる。
1966年、弁護士登録(東京弁護士会)。イタイイタイ病訴訟等多くの訴訟にたずさわってきた。
2010年、『公害裁判 −イタイイタイ病訴訟を回想して』(紅書房)を上梓した。