『公害裁判』を語り継ぐ(1)  
2010年12月6日
島林 樹さん
(弁護士)

―――戦後、富山県の神通川流域で、骨がもろくなり、激しい痛みを伴う病気=イタイイタイ病が広がりました。当時の三井金属神岡鉱業所から流出した排水に含まれたカドミウムが原因でした。1971年、日本の公害裁判史上、初めてその被害者たちが大企業に勝訴しました。島林さんが綴られた、『公害裁判 −イタイイタイ病訴訟を回想して』は、司法のあり方、法律家の役割を考える上でも有意義な本だと思います。
まずは、この本の出版の動機や反響からお聞かせください。
(島林さん)
イタイイタイ病訴訟については、私が被害者の方々に裁判でのたたかいを提案した経過があり、その結果について私なりに報告をしなければならないと、以前から考えていました。2007年にNHKがイタイイタイ病のドキュメンタリー番組を制作し、私も出演しました。そうしたら、番組を見た多くの知り合いから電話をいただき、すごい反響でした。その時に、ぜひ裁判のことを出版して欲しいとの声をいただき、このたび出版の運びとなりました。
本の出版にも多くの反響をいただいています。司法研修所同期で、東京高裁の元総括裁判官、奥山興悦さんからは手紙をいただきました。“若い裁判官たちにこの本を読んでもらいたい”“この本で公害被害者の気持ちや被害者たちに尽くす弁護士の活動を学んで欲しい”と綴られており、大変嬉しく思いました。富山の方々や全国各地の弁護士仲間からもお便りをいただいています。

―――イタイイタイ病訴訟は、島林さんが被害者の方々に裁判でたたかうことを提案したことから始まりました。裁判でたたかうということは、当事者にとっても、弁護士にとっても大変なことですが、島林さんはなぜそのように判断・決断したのでしょうか。島林さんは裁判で勝てるという見通しを持っていたのでしょうか。
(島林さん)
私は神通川の流域に住み、子どもの頃から、ときどき川水が白濁し、死んだ魚が流れているところを見ていました。東京で弁護士としての仕事を始めた私が富山に帰省した時、役場広報誌のイタイイタイ病の記事に目がとまりました。私は被害者の損害賠償のことなどが気になり、被害者の方々と会うようになり、裁判でたたかうことを勧めたのです。その時の気持ちは、“この被害は放ってはおけない”ということでした。最終的に裁判で勝訴することができましたが、正直に言って、はじめから勝算があったわけではありませんでした。
弁護士になったばかりの私は、当時東京都の都営住宅から一定の所得を得ている人たちが明渡しを求められる事件にも携わっていました。不合理な措置によって、人々の人権が脅かされている事態に義憤を感じるようになっていました。私がイタイイタイ病の被害者の救済を唱えたのも、そのような時期だったからかもしれません。また、私は青年法律家協会に所属していましたので、そこで多くの弁護士の支援も広げられると考えました。

―――イタイイタイ病訴訟では、被害者=原告の弁護団長、正力喜之助弁護士の役割も大きかったようですね。
(島林さん)
この訴訟の弁護団長は、富山の著名な弁護士である正力喜之助さんが引き受けてくださいました。正力喜之助弁護士は、富山の政治に大きな影響力を持っていた正力松太郎氏の甥でした。そこで、富山県の政治・経済界の保守系の人たちはそのルートも使いながら、正力喜之助弁護士に弁護団長を辞めるよう働きかけました。しかし、正力喜之助弁護士は敢然と弁護団長としての任務をやり遂げてくださいました。
富山は保守的な地域ですので、弁護団長としての正力喜之助弁護士の存在は大変大きいものでした。地域の人たちも“あの先生が言うのなら”と信頼を寄せていました。弁護団結成の声明は「我々弁護団は思想信条党派をこえて、ヒューマニズムの立場の下に結集し」たことを高らかに謳いました。正力喜之助弁護士は、まさにこの立場で奮闘されたのです。

続く

 
【島林樹(しまばやし たつる)さんのプロフィール】
1933年、富山市に生まれる。
1966年、弁護士登録(東京弁護士会)。イタイイタイ病訴訟等多くの訴訟にたずさわってきた。
2010年、『公害裁判 −イタイイタイ病訴訟を回想して』(紅書房)を上梓した。