布施辰治から弁護士のあり方を考える(2)  
2010年10月18日
辛昌錫さん
<前回からの続き>
 

―――辛さんに対しても布施辰治の仕事振りは特筆されるところがあったようですね。
(辛さん)
私が逮捕された時も、布施先生は、占領目的違反とするためには「青い目のやから」という表現が確定的にアメリカ兵を意味することを証明する必要があるといって検察官を戦略的論述で追い詰めました。
拘留理由開示公判でのことです。

   布施「『青い目』とは米人、即米占領軍を指しこれは占領政策違反であるというが、日本人には『青い目』は居ないのか」。
検事「居ります」。
・・・

 これで私は釈放され、九死に一生を得ることができました。
これらの弁論は弁護士としての布施先生の優れた技術ですが、その背景には布施先生に、何としても虐げられた依頼者を助けなければならない、という強い決意があったと思うのです。

―――布施辰治は依頼者に対して細やかな心遣いをされる方だったようですね。
(辛さん)
布施先生は虐げられ、お金のない依頼者からは弁護料をとりませんでした。こんにちでも依頼人に配慮する弁護士はいますが、布施先生の場合は、初っ端から「お金の無い人からは弁護料はとらない」という立場に徹していました。そして、布施先生は虐げられ人からは弁護料をとらないというだけではなく、命をかけてでも救わなければならないとサポートしたのです。
エピソードですが、布施先生は東京から秋田まで、当時の二等車(こんにちのグリーン車)で移動していましたが、秋田到着の直前に普通車である三等車に乗り換え、三等車から下車していました。十分な弁護料を払えない依頼者たちは、せめて車代=交通費だけでも、といって布施先生に渡していました。布施先生は、二等車の運賃はいらない、三等車の運賃でよいのだと依頼者たちに心遣いをしていたようです。
布施先生は、一方で、依頼人がお金持ちの場合は相応の弁護料を受け取っていました。布施先生は、稼いだお金を虐げられ、お金のない依頼人たちのために使ったのでした。

―――最後に、辛さんの、布施辰治という弁護士のことを広げる課題についてのお考えをお聞かせください。
(辛さん)
布施先生は虐げられた人々を助けようと、命がけで奮闘されました。私は、日本社会の中で在日朝鮮人は虐げられた人々の最下層におり、だから布施先生は身を粉にしてこの人たちの弁護にあたったのだと思います。
私も布施先生に助けられた一人ですが、ほかにもそのような人がまだいらっしゃいます。その実例をさらに掘り起こし、後世に残していければと思っています。

―――弁護士のあり方を考える上で布施辰治から学ぶことは多いと思います。本日はありがとうございました。

 
【辛昌錫(シン・チャンスク)さんのプロフィール】
1930年、在日朝鮮人二世として東京で生まれる。
1981年から、祖国の科学的発展を願う立場から祖国朝鮮に自然科学誌等を送る「一冊の会」を立ち上げるなどを展開しながら、イネの自然耕などの経営コンサルタントに従事している。