布施辰治の司法への思いに学ぶ  
2010年6月28日
石川元也さん
(弁護士)

 2010年5月、ドキュメンタリー映画「弁護士布施辰治」が完成し、一連の試写会を経て、各地での上映が始まろうとしている。この映画は、布施の多面的な人権活動のうち、とくに在日朝鮮人の人権擁護や植民地下の独立運動の弁護に重点を置いている。映画に出てこない場面を含めて、布施はあの暗黒の時代に、その弁護活動の故に、2回にわたる弁護士資格の剥奪と2回の実刑判決・下獄という抑圧にさらされたが、なお揺るぎなき信念をたもっていた。そのゆえんはどのようなものであったか、また、あの時代に司法に対してどのような思いを抱いて、その活動を展開してきたのであろうか。

 布施辰治は、1902年、判事検事登用試験に合格、司法官試補を経て、翌1903年、弁護士を開業した。23歳である。
30歳の1910年、四谷に2階建て洋館作りの法律事務所を構え、家紋入りの自家用人力車を駆使するなど市民派弁護士として成功していたが、1920年、自己革命の告白をして,以後、社会的事件の弁護に専念することを宣言した。これより社会派弁護士といわれるようになる。

 しかし、布施の人間としての骨格を作ったのは、幼少の時からはぐくまれた「任侠」の精神であり、青年時代に接したキリスト教、さらにトルストイに傾倒していった。1914年に生まれた三男に、杜生(もりお)と名付けた。トルストイは、当時、杜翁と呼ばれ、ときには杜生ともいわれていたのである。最愛の杜生は、旧制松本高校から京大ヘ進んだが、治安維持法違反で検挙され、未決勾留中に死亡した。布施は、わが息子なるが故に殺されたと憤り嘆いた。
また、布施は、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を座右の書として、獄中でも繰り返し読みかえしたという。
このように、布施は、トルストイ、ユーゴーの人道主義と正義感を自己の信念の基礎とし,生涯、これを貫いたのである。

 布施の司法への思いも、また、この信念に基づくものであり、それは、市民派といわれる時期においても、社会派といわれる時期においても、徹底した刑事弁護士として、人道主義に基づく正義感を貫いたものであった。
布施は、刑事弁護人としてかかわった経験から、職業裁判官による裁判に不信を増大させていった。布施の正義感からすると、当時の法制、司法制度には、大きな限界があった。それを乗り越えるのは人間以外にない。ところが、その運用を担当する裁判官が、また、世間知らずの石頭でしかない。布施は、それを補うのは、陪審制度だとそこに救いを求めた。早くも、1917年、「嗚嗚、刑事裁判の時弊、司法機関改善論」(布施辰治法律事務所)において、「誤判とは、裁判官非常識の産物」で、「之が改善の方法は、民本主義の政治組織に由る陪審制度の実施であらねばならぬ」とのべている。大正陪審法は、1923年成立、1928年施行であるから、布施の先見性は際だっている。
さらに、布施は、法廷で裁く裁判官もまた歴史と社会の眼によって裁かれるのだという、裁判闘争を通じての裁判批判を展開した。これまた、戦後の松川裁判闘争における裁判批判につながる先見であった。
布施は、「死刑弁護士」といわれるほど、引き受け手のない死刑事件の弁護を引き受けた。その結果、東京の拘置所の未決の死刑囚の10人のうち7人までが布施に弁護を依頼したいといっているという事態であった。そのうち何人かは、死刑台から救いえたが、実に90人以上の死刑囚を救うことはできなかったと、述懐している。布施の死刑廃止論は、弁護人の努力いかんを超える制度の現実から出発しているのである。
治安維持法違反の事件や植民地下の朝鮮人の弁護事件など、厳しい政治抑圧下の裁判でも、布施の弁護を貫く姿勢に変わりはなかった。あくまでも、司法は正義の実現の場でなければならないとしたのである。

 布施の司法制度改善の思いは、法改正を実現するためには、議会の改善を果たさなければならない、そこから必然的に普通選挙権運動につながっていく。しかも、他の普選論者にはなかったところの、女性も、植民地の住民も含む「すべての国民」に選挙権をという徹底したものであった。

 布施の司法への思いは、日本国憲法における司法の理念につながっているといってよいであろう。(2010年6月24日)

 (本稿は、大石進著、「弁護士布施辰治」(西田書店、2010,3)によるところが多い。直接本書を読まれることをおすすめする次第である。)

 
【石川元也(いしかわもとや) さんのプロフィール】
1957年、弁護士登録(大阪弁護士会)。
日弁連刑事法制委員会委員長、法務省法制審議会刑事法部会委員、自由法曹団団長などを歴任。