論文「司法行政について」(その2) 筆者:H・T
2012年11月19日

前回からの続き>

 著者は最高裁発足前後の経緯を詳細に紹介しています。日本国憲法と裁判所法の理念と目的は、民主的な司法制度の創設であり、裁判所法は司法行政を裁判官会議に与えることとしました。裁判官自治の考え方には、司法行政が徹底して民主的に運用されるようにとの期待と、それにより従来の官僚制の弊を打破・根絶しようという狙いが込められていました。
 しかし、最高裁は既に大きな限界を持っていました。司法権独立の信念を確固として抱いていた細野長良大審院院長派は、裁判所内部の激しい対立の中で選挙に敗れ最高裁から排除されました。司法次官、検事総長などの枢要ポストに次々と弁護士出身者を充てるという法曹一元的人事が断行されていましたが、これも覆されました。
 戦後司法制度改革は国民的規模でじっくり検討されるべきだったにもかかわらず、主体的に関わったのは在京のごく一部のエリート裁判官でした。キャリアシステムが維持され人事考課評定がなされることとなり、高裁長官や地裁所長等が上司として裁判官を評定するという戦前の仕組みは基本的には何も変更されなかったと断じてよかろうと、著者は記しています。裁判官の意識の変革という意味で貴重な機会は失われました。
 1950年に就任した田中耕太郎最高裁長官は、民主化路線を変更したGHQや政府の動きに露骨にコミットする政治姿勢を打ち出し、政治情勢の中で生じる抵抗を裁判所においても徹底して迅速に抑え込む秩序維持政策を採りました。
 そのような中、1954年、加藤一郎、平野龍一氏らを中心に憲法の理念を実現することを目的として青年法律家協会が結成され、筆者も同期の裁判官半数くらいと共に参加しました。
 しかし、憲法に沿った判決として市民や学界から高い評価を得た1966年の全逓東京中郵事件判決などをきっかけに一部ジャーナリズムや政府与党から裁判所に対して強い批判が起こり、最高裁も一体となって青法協裁判官が攻撃の的となりました。裁判官訴追委員会による長沼ナイキ訴訟の福島裁判官に対する訴追猶予処分、宮本康昭裁判官の再任拒否などです。
 このような中で著者は、「柔らかな頭・優しいハート・勇気」を持った裁判官像を追求して行きます。

(続く)

 
【論文情報】
筆者は西理氏(大分地・家裁所長、福岡高等裁判所判事(部総括)を経て現在は西南学院大学法科大学院教授)。判例時報2131、2143、2144各号(判例時報社)に所収。