論文「原発容認判決を書いた裁判官たちの責任」 筆者:H・O
2011年8月1日

 これまでの原発訴訟史上、原告勝訴(建設差止めや設置許可無効)の裁判は、高速増殖炉「もんじゅ」の設置許可を無効とした名古屋高裁判決と石川県の志賀原発2号機の建設差止め判決(2006年、金沢地裁)の2例しかありません。
  この論文はまず、志賀原発2号機建設差止め判決について分析しています。第一審の金沢地裁は、巨大な地震動が生じた場合、その原子炉からの放射線に周辺住民が被爆し、「人格権」が侵害されるとし、建設差止めは許容されるとしました。ところが、この裁判の控訴審は、地域住民側が原子炉運転の危険性を具体的に立証していないとして、第一審判決を覆しました。筆者である行政学者・新藤宗幸氏はこの裁判の第一審と控訴審の判決を対比し、その考え方の違いを以上のように分析しました。そして、多くの裁判官が原発の問題について、国・事業者と同一の視点に立ち「絶対安全神話」を支持してきたことを厳しく糾弾しています。
  この論文では原発訴訟の公平性を確保する具体的提起もなされています。原発訴訟のような専門的科学・技術上の知見を必要とする裁判には、原告(弁護団)が推薦する専門家も審理に加えることなどです。プロの裁判官が市民的感覚を涵養すべきことは当然ですが、あわせて検討されるべき課題といえるでしょう。

 
【論文情報】
「法と民主主義」2011年6月号に掲載。筆者は新藤宗幸・元千葉大学教授(行政学)。