【村井敏邦の刑事事件・裁判考(60)】
松橋事件再審開始決定
 
2016年7月28日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)

再審開始決定
 本年(2016年)6月30日、熊本地裁は、松橋事件について、再審開始決定を出しました。7月2日に、熊本地検は即時抗告しましたので、まだ帰趨はわかりませんが、再審開始決定が出たのは、大きいことです。

松橋事件とは
 31年前の1985年1月8日、当時59歳のHさんが、熊本県下益城郡松橋町の宅居室のこたつの中で血を流した状態で死亡しているのが発見されました。直ちに、熊本県松橋警察署(以下「松橋署」という)が捜査を開始したところ、被害者の遺体には頚部を中心に多数の創傷があり、司法解剖( 同月 9 日実施)の結果、死因は刃物で頚部を刺されたことによる失血死であり、死後2日ないし4日間が経過していると推定されました。
 捜査機関は、その数日前に、被害者宅で、被害者とMさん、Aさん、その妻Bさんの4人で酒宴を持った際、被害者とMさんとの間で激しい口論があったなどの事実から、当初からMさんを容疑者の1人として見ていました。Mさんは参考人として取調べを受け、ポリグラフ検査も受けましたが、当初は否認していました。ところが、同月20日、自宅に来た警察官に犯行を認め、同日、逮捕されました。
 Mさんはその後の取調べでも犯行を認める供述を続け、2月10日、殺人罪で起訴されました。
 Mさんは、第1回公判期日において、本件事件につき、公訴事実中の動機について若干争うほかはすべて認めるという供述をし、当時の国選弁護人は、事実は争わず、飲酒の影響による心神耗弱だけを主張しました。Mさんは、第4回公判期日に行われた被告人質問において、犯行のことは断片的に記憶に残っているがほとんど記憶にないと述べ、第5回公判期日に行われた被告人質問において、被害者を殺害した事実はないと述べて犯行を全面的に否認するに至りました。
 熊本地裁は、この後、国選弁護人を交代させ、Mさんの犯人性を改めて審理し、1986(昭和6 1)年12月22日、Mさんの犯人性を認めて、有罪と認定、懲役13年を言い渡しました。
 Mさんは控訴しましたが、1988(昭和63)年6月21日、福岡高等裁判所は控訴を棄却し、さらに、1990(平成2)年1月26日、最高裁判所第一小法廷も上告を棄却、同年2月13日、異議申立も棄却したことによって、第1審の有罪判決が確定しました。

再審請求
 2012(平成24)年3月1 2日、Mさんの法定代理人成年後見人であるE弁護士が、また、2015(平成27)年9月1 7日、Mさんの長男Tさんも再審請求をし、同年12月3日、両請求は併合されました。
 確定審がMさんの犯行と認めた証拠は自白です。請求人らは、この自白の任意性・信用性がないと主張し、そのことを証明する新証拠を提出しました。
 自白では、切出小刀の柄の部分にシャツの左袖の一部を破って巻きつけて、それで被害者を刺して殺したとしていました。犯行後、シャ ツ左袖の全部を焼却したと供述していました。そうすると、巻き付け布には血液が付着したはずであり、また、シャツの左袖は焼却されて存在しないはずです。
 ところが、焼却したはずのシャツ左袖が存在し、しかも、血液の付着も認められませんでした。これが第1の新証拠です。そのほか、請求人は、自白の内容が客観的事実と矛盾すること、ポリグラフの結果は、自白の信用性を担保しないことなどを主張しました。

熊本地裁の決定
 再審請求を受けた熊本地裁は、本件シャツ左袖が現存しており、しかも、そこには血液の付着がないという請求人の主張を認め、「本件巻き付け布に関する新証拠によって当該自白の信用性に疑義が生じ、本件切出小刀に布を巻いたという事実の存在に疑いが生じる」としました。さらに、小刀に血液がまったく付着していないという、確定審でも指摘されていた事実につき、自白の信用性についての上の疑義の「結果、確定判決において解消されたとする本件切出小刀に血液が付着していないことの不自然性、不合理性が復活する ことになる。」として、自白の信用性に疑いがあるとしました。
 その他、被害者の傷が本件切出小刀ではつかないという鑑定結果などの新証拠と「確定審で取り調べられた全証拠を総合して検討すると、Mさんの自白には、「その重要部分に客観的事実との矛盾が存在するとの疑義が生じており」、Mさんの自白には、これだけで、「確定判決の有罪認定を維持し得るほどの信用性を認めることはもはやできなくなったといわざるを得ず、確定判決の事実認定には合理的疑いが生じている」として、再審請求を認め、再審開始を決定しました。

そのほか、注目される判断
 熊本地裁には、再審開始を決定したという結論部分だけではなく、再審請求の要件となっている証拠の新規性、再審請求審の判断方法、ポリグラフの位置づけなどについても、注目される判断が見られます。ここでは、前2者について触れておきます。
 まず、証拠の新規性について、熊本地裁は、次のような判断を示しています。
 「刑事訴訟法435条6号にいう「証拠をあらたに発見したとき」、すなわち証拠の新規性とは,証拠の未判断資料性(裁判所の実質的な証拠価値の判断を経ていない証拠であるこ と)を意味するものと解するのが相当である。そのような観点から,鑑定のような代替性のある証拠についても、鑑定内容が従前の鑑定と結論を異にするか、あるいは結論を同じ くする場合であっても、鑑定の方法又は鑑定に用いた基礎資料が異なったり,新たな鑑定人の知見に基づき検討が加えられたりして、証拠資料としての意義、内容において従前の鑑定と異なると認められるときは,新規性が認められると解するのが相当である。」
 この点は、従来からほぼ同様の運用がされてきたと思われますが、検察官がしばしば問題とするところでした。そこで、このように判断したことは新規性の解釈上、疑問を払しょくするものとして意義のあるところです。
 次に、この事件では、有罪を支える証拠は自白のみと言ってよい状態であり、この自白を支える間接事実、補助事実などを総合して有罪判決が出されたという構造になっています。このような構造になっている事件の判断方法について、熊本地裁は次のように述べています。
 「新証拠によって、Mの自白の任意性や信用性に関する判断が揺らぐこととなれば、確定判決の事実認定も動揺しかねない関係にある。そして、特に自白の信用性は、通常、いくつかの補助事実や補助証拠の総合的な評価によって判断されるところ(確定判決もそのような判断方法を採っている)、これらの評価、判断は、相互に有機的に関連していることが少なくない。そうすると、仮に新証拠によって、確定判決において自白の信用性を支えるとされていた補助事実や補助証拠の一部の存在や証明力に疑いが生じ、自白の信用性判断にも動揺が生じることとなった場合には、その動揺の程度によっては、新証拠による直接的な影響を受けない補助事実や補助証拠についても、その証明力等を改めて評価し直すべき場合もあり得ると考えられる。その上で、確定判決の事実認定の基礎とされた自白が、これらを総合してもなお有罪認定を維持するに足りる信用性を肯定できるか否かについて検討するべきである。そして、このような検討を行うことは、再審請求審が、特段の事情もないのにみだりに確定審の心証形成に介入するということには当たらないと解される。」
 なかなか意を尽くした説示だと思います。熊本地裁の決定は、全体的に相当に丁寧な判断を行っており、これを覆すことはかなり困難ではないかと、私は評価しています。検察官の即時抗告に対する判断はまだ出ていませんが、できるだけ早く棄却決定の出ることを希望しています。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。