【村井敏邦の刑事事件・裁判考(55)】
尼崎の連続変死事件(その3)
 
2016年2月29日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)

 これまで、2回にわたって、尼崎で起きた「疑似家族」内の連続変死事件を扱ってきました。この事件では、7人の人が起訴され、本年2月12日に主犯とされるX女の義理の娘R子に対する判決があって、7人全員に対して第1審の有罪判決が出ました。
 この事件では、X女との関係でその他のメンバーが心理的強制を受けており、それが公判ではさまざまな形で主張されてきました。最後に、この事件でどのような主張がされ、それに対して裁判所はどのような判断をしたかを整理しておきましょう。

「被殴打女性症候群」

 まず、「被殴打女性症候群」という精神症状が出てきました。この概念は、アメリカの精神医学者が提唱したもので、夫のDV(家庭内暴力)にさらされている妻に生じる精神症状で、夫の暴力にさらされ続けている妻は、その暴力に対する抵抗感を失い、常に夫、あるいは男性一般に対して恐れを抱き、現に暴力を受けている時だけではなく、暴力を受けていないときも、いつまた暴力が繰り返されるかわからないという心理状態になるというのです。そのため、暴力がおさまっても、夫の下から逃げることができず、また、次の暴力を受けるという悪循環に陥るのです。
 その究極の状態では、夫を殺さなければ殺されてしまうという気持ちになり、夫の就寝中や暴力がおさまっている機会に、夫を殺害するということになります。現に、アメリカでは、そうした事件が起き、裁判で妻の行為が正当防衛に当たるかどうかが争われることがありました。
 同様な精神状態は、虐待を受け続ける児童にも生じ、「被殴打児童症候群」と呼ばれます。また、「強姦被害者症候群」という、強姦を受けた女性に生じる精神状態もあります。
 これらは、いわゆる心的外傷後ストレス障害(PTSD=Posttraumatic Stress Disorder)の一種とされています。

日本の裁判においては

 日本の裁判でも、被殴打女性症候群や強姦被害者症候群が問題になった事件がいくつかあります。タイの女性が売春をさせられるということを知らずに日本に連れてこられ、強制的に一定の場所に住まわされ、売春を強要されたのに対して、そこを逃げ出そうとして監視役の人物を殺害したという事件がありました。この事件では、弁護人は「強姦被害者症候群」を持ち出して、緊急避難あるいは期待可能性がないという主張をしました。同じくタイ人女性の事件で、暴力団組員にラブホテルに監禁され、殴るけるの暴行を受けたうえで裸にされ、後に来る仲間の相手を強要されたのに対して、ベッドでうつぶせになってゲームをしている組員の後頭部を便器のふたで殴って死亡させた事件では、弁護人の正当防衛の主張に対して、裁判所は過剰防衛を認めました。
 DVの事件もあります。日常的に暴力をふるう夫が「死ね」と言って素手で首を絞めてきたのに対して、このままでは殺されると思い、男が手を放して後ろによろめいたところを、持っていた手拭いを男の首に巻きつけて首を絞め、絞殺したという事件が京都でありました。この事件でも、弁護人は正当防衛を主張しましたが、裁判所は過剰防衛を認めました。しかし、次のように述べて刑を免除しました。
 「被告人は極限にまで追いつめられ、被害者に対する非常な恐怖に加え、興奮、狼狽、さらにはそれまで堪え忍んできた同人に対する憎悪、憤激のあまり、同人が意識を喪失してもなお夢中で同人の首を絞め続けたもので、……そもそもこのような事態にたちいたった原因の大半は被害者にあると考えられるところ、被告人は同人の暴力に堪え忍び、生活苦に逐われながらも、本件犯行までは真面目な一社会人として生活してきたと考えられる」。「被殴打女性症候群」という言葉は使われていませんが、実質的には之を認めたものと言えるでしょう。

「マインド・コントロール」

 2月12日に判決があった尼崎事件のR子被告人の事件では、鑑定人証言で、主犯のX女の「マインド・コントロール」下での事件であると述べられ、弁護人はこれに従って、被告人は「マインド・コントロール」による犯行として責任が軽減されると主張しました。
 これに対して、裁判所は、「マインド・コントロール」という概念は用いなかったものの、「親しい者同士の暴力を肯定する元被告人X女の価値観を受け入れ、虐待行為や死に抵抗感を抱かない異常な感覚をいや応なく身につけた」と言及し、事件関与の背景にX女の強い影響があったことを認めました。
 「マインド・コントロール」という概念は、オウム真理教の事件でしばしば登場しました。たとえば、1997(平成9)年12月17日の東京高裁判決の中で、被害者の言葉としてですが、被告人がマインド・コントロール下にあったという表現が出てきます。
 その翌年1998(平成10)年10月23日東京地裁判決は、被告人の主張に対する判断で、「マインド・コントロール」について次のように判断しています。
 「マインド・コントロールの概念には学問的に定まった定義がなく、マインド・コントロールの影響下にあったからといって、直ちに責任能力や期待可能性の有無、程度に結び付くものではないと考えられることからすると、被告人が当時マインド・コントロールの影響下にあったかどうかはさておくとし、教団においては、Fの指示に従うことが真理の実践で、最高の修行であると説かれ、かつ、Fの指示に従わなければ地獄に落ちるという恐怖感が煽られており、そのような特殊な環境の中で、被告人が一定程度価値基準の変容を受け、Fの説く教義を信じて本件各犯行に及んだことは否定できない。」

支配・服従の心理

 「マインド・コントロール」も「被殴打女性症候群」も、支配・服従の心理に服していることを意味することでは共通しています。尼崎事件の裁判では、いずれも主犯の元被告人X女の影響の下で行為が行われていたことは認められています。しかし、それが、完全なる支配・服従関係であることまでは、裁判所は認めていません。
 「ロボット化」という概念も用いられていました。完全な支配・服従関係の中では、行為者は支配する者のロボットのように支配する者の意思のまま行動するということになるでしょう。この状態になった場合には、直接の行為者は自らの意志ではなく、支配する者の意志に従って、自動的に行動することになり、その場合には、直接の行為者には、自由な意思がなく、あるいはその行為性さえも否定されます。
 このような究極の状態は、まさに「ロボット化」と称するのがふさわしく、刑法的には、行為者の犯行として責任を問うことはできないことになります。
 裁判所は、そこまでの支配・服従関係を認めていませんし、また、弁護人の主張もそこまでのものではないようです。量刑に影響がある程度の支配・服従関係があったという主張のようですので、論理は同じではありませんが、裁判所もある程度、弁護人の主張を認めているということにはなりそうです。
 しかし、なぜこのような悲惨な事件が起きたのかの真相は、まだ解明されたとはいえません。X女が死亡していることによって、この点の解明は不可能に近いということでしょうか。

 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。