【村井敏邦の刑事事件・裁判考(53)】
裁判員による有罪判決を覆すことの意義
 
2015年12月17日
村井敏邦さん(一橋大学名誉教授)
オウム真理教菊地事件

 オウム真理教元信者・菊地直子被告人の殺人未遂ほう助等の事件で、東京高裁は、裁判員裁判の有罪判決を覆して、無罪を言渡しました。これに対して、検察官は上告をしました。
 東京高裁の大島隆明裁判長は、一審が被告人に犯行を助ける意思があったと認めて、被告人に殺人未遂ほう助罪で有罪としたことには、経験則・論理則に照らして不合理な点があるとして、有罪判決を破棄して、無罪を言渡しました。
 この高裁の判断に対して、裁判員裁判を重視すべきとした最高裁判所の判断に反するとの批判が、とくに検察関係者の間から出されています。検察官の上告の趣旨も、この点にあるようです。

最高裁判決の趣旨

 最高裁第1小法廷は、平成24年2月13日の判決において、裁判員裁判事件の控訴審では第1審判決に論理則・経験則などに照らして不合理な点があることを具体的に示さなければ事実誤認として破棄することはできないと判示しました。
 この判決では、最高裁判所は、まず、「刑訴法が、控訴審の性格を原則として事後審としていること、第一審において直接主義・口頭主義の原則が採用していることからすれば、刑訴法382条にいう事実誤認とは、第一審判決の事実誤認が論理則、経験則等に照らして不合理であることをいうものと解するのが相当である。」としたうえで、「控訴審が第一審判決に事実誤認があるというためには、第一審判決の事実誤認が論理則、経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すことが必要であるというべきであり、このことは、裁判員制度の導入を契機として、第一審において直接主義・口頭主義が徹底された状況においては、より強く妥当する」としました。
 ここでは、一般論として、控訴審が事後審であり、第1審は事実審として直接主義・口頭主義が採用されていることが示されています。事実認定を行うのは、事実審である第1審の役割であること、控訴審はこの事実審の判断を尊重したうえで、そこによほどの不合理な点がある場合にも、その判断を破棄することができるという、第1審と控訴審との役割の違いを説いています。この点は、刑事事件における控訴一般についての判断として、ある意味で、当たり前のことを言ったに過ぎないと評されます。
 この一般論を少し敷衍したのが後半部分で、「論理則・経験則等に照らして不合理であることを具体的に示すこと」という控訴審における事実誤認の判断の基準を示したのです。これも、控訴審一般に向けたものと言えますが、上記引用の最後のところでは、裁判員裁判を意識していることは間違いがありません。もっとも、裁判員裁判についてのみこの基準を適用したというのではないでしょう。「裁判員制度の導入を契機として、第一審において直接主義・口頭主義が徹底された状況」を指摘しているのであって、裁判員裁判事件だけに限って議論しているわけではありません。
 事実認定については、第1審の判断を尊重すべきであるというのは、当然です。安易に、第1審の事実認定を覆してしまう控訴審が多発することになると、何のための第1審なのか、ということになります。最高裁判所は、この点に警鐘を鳴らしたかったのでしょう。
 前回も指摘しましたが、第1審の判断が無罪の場合には、控訴審で有罪の判断をすることについては、よほど慎重でなければなりません。筆者のように、無罪の判決に対しては、検察官は控訴すべきないという考え方をとらない場合でも、無罪判決に対する控訴は慎重であるべきだという点では、異論がないでしょう。
 実は、上記の最高裁判所の判決は、この場合についての控訴審のあり方を示したものです。最高裁は、判断の中で有罪の場合、無罪の場合とは分けていませんが、最高裁が判断を求められたのは、第1審の裁判員裁判が下した無罪判決を覆した控訴審の判断の是非です。

有罪判決を覆すことについて

 有罪判決に対する控訴はどうでしょうか。この場合でも、控訴審が、理由もなく、第1審の事実認定を覆すというのは、許されません。しかし、無罪判決に対する控訴と同程度の慎重さを要求されるのでしょうか。
第1審の判断を覆すことに、特段の慎重さを要求したのが、上記の最高裁の趣旨だとした場合でも、これを直ちに有罪判決に対する控訴にあてはめることはできません。
 有罪判決に対する控訴は、被告人側が行います。「疑わしきは被告人の利益に」ということが刑事裁判の鉄則です。この鉄則に照らして、被告人は、有罪判決に疑いを投げかけるのが、被告人側の控訴です。第1審がこの鉄則に反した事実認定をしたとして、被告人が控訴して、控訴審がその言い分をもっともだと判断した場合には、控訴審は有罪判決を覆さなければなりません。その意味では、無罪判決を覆すことと有罪判決を覆すこととは、必ずしも同一の基準ではないのです。
 この点は、裁判官による裁判であれ、裁判員裁判であれ、同様に考えなければなりません。裁判員裁判であるから、上記の刑事裁判の鉄則を考えなくてもよいということにはなりません。1回だけの事実認定に携わる裁判員の場合には、ともすれば慣れに毒されがちな裁判官とは違って、検察官の主張と立証に対して、率直な疑いを出しやすいだろうというのが、裁判員裁判に期待されるところです。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。