【村井敏邦の刑事事件・裁判考(32)】
公証人役場事務長逮捕監禁致死事件
 
2014年2月3日
村井敏邦さん(大阪学院大法科大学院教授)
事件の概要
 通称、「仮谷さん拉致事件」と言われていますが、「公証人役場事務長逮捕監禁致死事件」と呼ぶのが妥当です。「拉致」というのは法律用語ではないからです。1995年(平成7年)2月28日午後4時半ごろ、東京都品川区上大崎の路上で、目黒公証役場から出てきた目黒公証役場事務長だった仮谷清志さん(当時68歳)をオウム真理教信徒らがワゴン車に連れ込んで、山梨県西八代郡上九一色村(現:南都留郡富士河口湖町)の「サティアン」と呼ばれるオウム真理教の修行場に連れて行き、そこで監禁して、大量の麻酔薬を打ち死亡させたという事件です。一連のオウム真理教信者による事件の一つとされています。
 この事件の主犯格の裁判で争点となったのは、殺意の有無です。裁判所は殺意を認めず、殺人罪の成立を否定して逮捕監禁致死罪を認めました。この事件については、数人の関与が問題になりましたが、関与したとされていたHは、16年間の逃亡生活の果て、2011(平成23)年12月31日、警視庁丸の内警察署に自首してきました。

共犯者の自首とその公判での死刑確定者の証言問題
 その後、Hは、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件のほか、爆発物取締罰則違反事件などで起訴されました。公証人役場事務長逮捕監禁致死事件は現在、裁判員裁判で行われています。審理では、Hの役割が問題となり、Hは事件の詳しい内容を知らず、共同正犯ではなく幇助にとどまると主張しています。
 この点をめぐって、すでに裁判が確定した受刑者が証人として法廷で証言をしています。特に注目されるのが、死刑を言い渡された受刑者の証言です。死刑確定者が法廷で証言するのは異例のことです。法務省は、死刑確定者の「心情の安定」を害するとして、死刑確定者の法廷への召喚に否定的でした。裁判所は召喚を決定し、現在、死刑確定者の証言が行われています。

「心情の安定」について
 従来から、法務省は、「心情の安定」を持ち出すことが度々ありました。最も頻繁に持ち出されたのが、死刑確定者との面会を拒否する理由としてです。私自身、名張事件の受刑者奥西さんを支える会の代表の一人として、名古屋拘置所に奥西さんとの面会を求めたとき、「心情の安定」を害するという理由で拒否された経験があります。
 その頃の監獄法には、「心情の安定」という用語はなく、ただ、1963(昭和38)年法務省矯正局長通達で、接見や信書の発受など死刑確定者との交通にあたっては、「本人の心情の安定を害する場合」には、「概ね許可を与えないことが相当」とされていました。その理由について、上記通達では、「拘置中、死刑確定者が罪を自覚し、精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるよう配慮さるべきことは刑政上当然の要請であるから」とされていました。
 これに対しては、死刑執行まで拘束されている死刑確定者の地位は、未決拘禁者と同様であるとされるので、その面会について基本的には自由であるべきだという論理と、支援者との面会は死刑確定者自身が望んだことであり、そうした場合にまで心情の安定を害することはあり得ないことを理由として、面会を望んだのですが、施設側は心情の安定を害するの一点張りで、ついに名張事件の受刑者との面会は許されなかったのです。

「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」における「心情の安定」の位置づけ
 その後、1995(平成17)年に監獄法が全面的に改正されて「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」になりました。新法では、「死刑確定者の処遇に当たっては、その者が心情の安定を得られるようにすることに留意するものとする」(32条1項)と規定されました。「心情の安定」は死刑確定者の処遇の配慮要素として法律上の市民権を得たのです。
 今回、検察庁が死刑確定者の公開法廷での証言を渋ったのは、上記の法律規定によります。しかし、死刑確定者自身が証言することを望んでいるのに、心情の安定を害するという理由で証言を拒むことはできないとして、裁判所は、死刑確定者の証言を認めたのです。

共同正犯か幇助かの争点について
 Hの公判で、証言した死刑確定者やその他の共犯者の証言によると、被告人は、それほど重要な役割をはたしていなかったようです。しかし、裁判所の心証がどうであるかは、まだわかりません。現在、裁判員裁判で審理が行われていますが、裁判員は、これらの証言からどのような心証を得たでしょうか。判決を待たなければなりませんが、仮に判決が出ても、裁判員の心証形成の理由を聞くことができないのが、大変に残念なことです。

時効の問題
 実は、この事件には、もう一つ問題があったのです。Hが自首したのは、事件から16年後のことです。逮捕罪名は逮捕監禁致死罪です。この罪の刑は、事件当時の刑法の規定では、最高で懲役15年でした。当時の刑事訴訟法によると、懲役15年の刑にあたる罪に対する公訴時効は7年でした。その後、刑法改正があって、逮捕監禁致死罪の最高刑は20年になりましたが、事件当時の刑で処罰されるのが刑法上の原則なので、懲役15年に変わりはないことになります。ただし、Hの自首直前に公訴時効の期間が改正され、懲役15年に対する公訴時効は10年となりました。しかし、それにしても時効は完成しています。
 では、なぜ、逮捕監禁罪で逮捕でき、起訴できたのでしょうか。実は、共犯者に対する起訴があれば、時効はその裁判の確定まで停止するという刑事訴訟法254条2項の規定によって、Hの時効期間は停止していたので、時効は完成していなかったのです。間に刑法と刑事訴訟法の改正があり、いささかややこしい時効問題でした。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。