『原発を止めた裁判官 井戸謙一元裁判官が語る原発訴訟と司法の責任』
(現代人文社 GENJINブックレット 2103年8月刊)
 
2013年9月30日
中村英之さん(神坂さんの任官拒否を考える市民の会)
 9月15日、関西電力大飯原発4号機が運転を停止し、1年2か月ぶりに国内のすべての原発が再び止まった。今夏は史上まれに見る猛暑・酷暑でふだんはエアコンに頼らない生活をしている筆者も熱中症にかかり、数日間はエアコンをつけて寝た。列島中暑かったのに、不思議と電力不足や昨年同様の節電呼びかけがなかった。やはり原発がなくともこの国の電気供給は十分なのでは?本当に原発は必要なのか?この国の電気政策・原発政策を改めて疑わせる夏だった。
 福島第一原発事故で、原発政策にノーが突きつけられたにもかかわらず、安倍政権は停止中の原発再稼働のみならず、海外に原発を売り込みに行くなどしている。しかし、政府や経済界の意向のみで原発推進がまかり通ってきたものでもない。原発に不安を持つ市民らが、幾度となく設置許可取り消しや運転差し止めを求め裁判をおこしてきた。けれど裁判所はことごとく市民の訴えを斥け、司法も間違いなく原発推進の片棒を担いできた。その中にあって、商業炉である石川県志賀原発2号機の運転訴差し止め、住民側勝訴の判決を出した唯一の裁判官(長)が井戸謙一さんである。
 本書は、井戸さんの司法修習時代からはじまって、裁判官としてかかわってきた裁判などをとおして「司法の独立」とは何かを示唆する貴重な体験記となっている。井戸さんは「司法反動の歴史」の中で「日本では、裁判官は戦争責任を問われ」ず、「戦前、治安維持法に基づいて平和主義者を勾留し、有罪判決を下して裁判官は、そのまま戦後も裁判官として仕事をし」てきたと明確に指摘。このような当たり前で、重要な指摘をした裁判官がいただろうか。いや、むしろその意識を持った若い裁判官が増えた1960年代以降、政府自民党は「リベラルな司法」に危機感を持ち、青法協(青年法律家協会)会員の裁判官を露骨に差別するなどする司法行政当局自体を作り変えていく。69年の平賀書簡問題、70年の石田和外最高裁長官の青法協攻撃ととれる訓示、そして71年宮本康昭判事補の再任拒否、同年司法修習生7名の任官拒否。
 井戸さん自身、79年に裁判官になるが(31期)、同期5名が任官を拒否。全員青法協会員であった。うち二人は井戸さんと同じクラスで特に親しかったという。任官拒否に対して訴訟の準備をしていたという同期は、結局提訴しなかったが、横のつながりの強い期で同期会誌を発行したりしたとも。神戸地裁に判事補として赴任し、勾留請求を現在の運用に比べると多く却下したこと、代用監獄を絶対認めない勾留審査をする裁判官の姿を見て、自分もある程度、認めなかったこと、そして活発な裁判官会議。
 印象的かつ感動的なシーンがある。大阪高裁で参議院定数訴訟で主任裁判官として関わっていた時、違憲判決を出す当日の朝、それまで雑談の非常に多い裁判長がいつも通り雑談をひとしきり。9時50分になると「じゃ、行きましょうか」と普段と変わらない様子で法廷に向かう姿、報道陣などが大勢詰めかけ、普段とは違う裁判所の外の様子に対して、いつもと同じ空気の流れている裁判官室。「あ、これが裁判の独立なんだ」と納得し、井戸さんにとって自分なりの裁判官像をつくるのに大きな影響を与えた出来事だったという。
 判決言い渡し後もほかの事件をこなして、淡々と過ぎるこの経験は、どこからも何の圧力も、干渉もなく、3人の裁判官が考えて、議論して、結論を出し、文章にする。当事者の主張と証拠だけに基づいて結論を出して、それを淡々と言い渡す。こういう生活をこれからもしていきたいと。
 金沢地裁で裁判長として志賀原発2号機運転差し止め訴訟では、日本で初めて、唯一の差し止め判決を出した。そこに至る結論は、北陸電力の地震動の想定が甘すぎるということで、想定を超える地震動が原発敷地を襲った場合には、いろいろな安全装置がそのとおり動くかどうかは保証できない、過酷事故に対する具体的な危険があるというものだった。本書のもととなった井戸さんの講演集会では、能登半島の付け根にある邑知断層帯に対する評価、直下型地震の想定など北陸電力の主張は低い数値をもとにしているけれども、いずれももっと大きな被害が予想されるだけの根拠があるというもので、とても説得力のあるものだった。
 井戸さんはほかにも住基ネット事件でも違憲判決を出しているし、「即位の礼・大嘗祭違憲訴訟」では大阪高裁での実質的違憲判決にも関わっている。本集会を主催した「神坂さんの任官拒否を考える市民の会」は94年に思想・信条を理由としてたった一人裁判官への任官を拒否された大阪府箕面市の神坂直樹さんの任官(訴訟・運動)を支援する目的で結成されたもので、筆者が結成当初から関わっているものである。その神坂直樹さんは集会挨拶で「井戸さんのような裁判官になりたかったんだ」。
 神坂さん任官拒否取り消しを求める行政訴訟では、東京地裁は弁論を開かずに却下判決をなし、上告審で確定。任官拒否国賠訴訟では、神坂さんの本人尋問を大法廷で12回、25時間も尽くしながら大阪地裁は「神坂さんは、裁判官の公正らしさに欠ける」旨の抽象的、論理的でない理由で請求棄却(佐藤嘉彦裁判長 2000年5月26日)。大阪高裁は、地裁判決とは全く違うところで、神坂さんが判決起案に元号ではなく、司法研修教官の指導に従わずに西暦を使ったことが、神坂さんの性格・人格に問題がある旨の人格攻撃までして、控訴を棄却(太田幸夫裁判長 2003年10月10日)。神坂さんは、500頁超の上告理由書・上告受理申立書を提出し、地裁・高裁判決の論理?を完璧に崩したが、最高裁は理由もなしの上告棄却(藤田宙晴裁判官ら 2005年6月7日)。
 神坂さんの訴えに耳を傾け、真摯に判決を書く井戸さんのような裁判官はいなかった。神坂さんに対する任官拒否の理由は、神坂さんが箕面忠魂碑違憲訴訟(忠魂碑はムラの靖国。箕面市が公費で碑を移設、慰霊祭を行ったことに対して神坂さんの両親ら住民が提訴。忠魂碑訴訟は違憲判決、住民側和勝訴。)に原告補助参加人として関わっていたこと、それを司法研修で明らかにした上で任官志望したことに対する思想差別は明らかであるのに、どの裁判所もそのことには触れなかった。
 井戸さんは東日本大震災の年に退官され、その後はふくしま集団疎開裁判など、原発に対する市民の危機感を精一杯サポートしようと弁護団として忙しい日々を送っている。「井戸さんのような裁判官が増えてほしい。」たった一つ、それが市民が願うこと、そして神坂さんの任官を支援した私たちの希うことである。
 司法の独立と、司法を市民の手に。ぜひ、本書を注文、また図書館への希望などで広めてください。