砂川事件と司法(上)  
2013年4月29日
大出良知さん(東京経済大学現代法学部教授)
 先日、駐留米軍の合憲性が争われた砂川事件をめぐって当時の最高裁長官田中耕太郎が、公判前にアメリカ側関係者と極秘裏に会談し、アメリカ側の意向に沿う裁判の成行を確約するかのような言動を行っていたことを示す文書がアメリカ側から開示されたことが報じられました(4月8日、4月9日各紙ほか)。
 その文書は、駐日米大使から本国国務長官に宛てられた公電3通(1959年8月3日、11月5日、12月17日付)ですが、その3通以前に送られた公電1通(1959年4月24日付)も、既に2008年4月に、アメリカの公文書館でその存在が確認されており、その時点でも報道されていました(毎日新聞東京本社版2008年4月30日朝刊)。その後、事件関係者等が、日米両政府や最高裁に関係文書の開示を求めており、2010年4月にも民主党内閣により、1審判決直後に駐日米大使と外務大臣が会談した際の内容についての日本側の関係文書が開示されていました(毎日新聞東京本社版2010年4月3日朝刊)。そして、昨年11月には、新たに前記2通の公電(1959年11月5日、12月17日付)の存在が確認されていましたが(毎日新聞東京本社版2013年1月18日朝刊)、今回開示されたのは、この2通とこれまでに明らかになっていなかった1通の3通の公電ということです。
 砂川事件と呼ばれるのは、1957年7月8日に、当時の米軍立川基地拡張のため、特別調達庁東京調達局が強制測量を行った際に、基地拡張に反対するデモ隊の一部が、アメリカ軍基地の立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、7名が「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法」違反で起訴された事件です。
 この事件が歴史的事件になったのは、その第1審判決(1959年3月30日下級裁判所刑事裁判例集1巻3号776頁によってだったと言って良いでしょう。その裁判長伊達秋雄の名前を冠して伊達判決と呼ばれるようになった東京地裁の判決が、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第九条二項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である」としたからでした。
 翌1960年には、日米安保条約の改定期が控えており、さらなる批判の高まりを危惧した日本政府は、第1審において法律等が憲法違反との判断を受けた際に認められている跳躍上告(刑訴法第406条、刑訴規則第254条)という異例といってもよい方法により、最高裁の判断を求めることにしました。そして、最高裁大法廷は、これもまた異例ともいえるスピードで審理を行い、同年12月16日に、伊達判決を破棄し、地裁に差し戻しました(最高裁判所刑事判例集13巻13号3225頁)。その内容は、外国の軍隊は、憲法第9条2項が保持することを禁じている戦力に「外国の軍隊」はあたらないという極めて形式的な解釈でしたが、同時に、「日米安全保障条約のように高度な政治性をもつ条約については、一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という、いわゆる統治行為論を採用したものでもありました。
 この大法廷判決は、当時から極めて政治的な判決との批判を免れませんでしたが、どのような政治的な力が働いていたかまでは明らかではありませんでした。この間明らかになった事態を整理すれば以下のようなことになります。
 まず、伊達判決を受けて、当時の駐日大使が、外務大臣藤山愛一郎い会い、同判決の破棄を狙って最高裁への跳躍上告を促したということです(1959年3月31日)。そして、4月3日には、跳躍上告が行われました。
 また、1959年4月24日の公電前には、駐日大使が田中最高裁長官と「密談」し、「担当裁判長の田中は大使に、本件には優先権が与えられているが、日本の手続きでは審議が始まったあと、決定に到達するまでに少なくとも数カ月かかると語った」というのです。
 さらに、1959年8月3日付の公電では、7月31日に駐日首席公使が田中長官と「共通の友人宅」で面会した際「田中は、砂川事件の最高裁判決はおそらく12月であろうと考えている、と語った」こと、また、「9月初旬に始まる週から、週2回の開廷で、およそ3週間で終えると確信している」と述べたことなどが報告されている。実際の裁判も、公判期日は8月3日に決まり、9月6、9、11、14、16、18日の6回を指定し、18日に結審。最高裁大法廷は同年12月16日に1審判決を破棄、差し戻した。どう公電では、その上でさらに、田中長官が「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と述べたともしているということです。
 11月5日付の公電でも、駐日大使が田中長官と非公式に会談し、田中長官が「下級審の判決が支持されると思っている様子は見せなかった」と報告している。すなわち、駐日大使はじめ米政府関係者が継続的に田中長官と接触していたことが窺えます。
 そして、一審判決を破棄した最高裁判決翌日の12月17日付の公電では、「全員一致の最高裁判決は、田中裁判長の手腕と政治力に負うところがすこぶる大きい」、また「日本を世界の自由陣営に組み込む金字塔」と評価しているということです。
 このように整理してみますと、あらためて当時の司法の果たした政治的役割が歴然としますが、その意味あいについては、次回に検討しようと思います。

<つづく>
 
【大出良知さんのプロフィール】
九州大学法科大学院長などを経て、現在東京経済大学現代法学部長。専攻は刑事訴訟法、司法制度論。
『裁判を変えよう−市民がつくる司法改革』『長沼事件 平賀書簡−35年目の証言、自衛隊違憲判決と司法の危機』など著書多数。