【村井敏邦の刑事事件・裁判考(21)】
弁護過誤について(2)
 
2013年2月4日
村井敏邦さん(大阪学院大法科大学院教授)

前回からのつづき>

裁判員裁判における弁護活動の難しさ

 裁判員裁判においては、通常の裁判以上に難しいところがあるでしょう。それは、論理的に妥当な弁護だけでなく、裁判員にとって印象が良いか悪いかということも、影響する可能性があるからです。もちろん、裁判官の場合にも、裁判官次第で印象を重んじる裁判官もいるでしょうが、裁判員にとっては、弁護人を法律家の仲間として考える要素はないため、その弁護の説得力を全体的な印象で判断する可能性もあります。
 ここでの印象は、単なる外形的なことではありません。当事者が裁判員に対してどれほど誠意をもって語りかけているかというようなことが、厳しく判断されるということです。とりわけ、約束違反や主張していることと弁護活動が矛盾しているなどの場合には、裁判員はその弁護に対して悪い印象をもつことになるでしょう。

犯人は別にいるという主張について

 被告人が無罪を主張する場合、その主張には真犯人は被告人以外の人間だというでを含んでいますが、そのことを特に主張する必要はありません。原則的な言い方をすれば、被告人は、自分が犯人ではないと主張する必要もないのです。被告人が犯人であることを主張し、証明する責任は、あくまでも検察官にあります。被告人がすることは、検察官の主張立証に疑いを投げかけることだけです。検察官が、被告人・弁護人が投げかけた疑いを拭うことができない場合には、検察官は、被告人が犯人であることについての立証に失敗したことになり、被告人は無罪となります。これが、刑事裁判の鉄則である「疑わしきは被告人の利益に」ということであり、「合理的な疑いを入れないほどの立証」ということです。
 被告人が犯人だという検察官の主張に疑いを投げかけることと、犯人は別にいるという主張とは、似ているようで必ずしも同じことではありません。犯人は別にいるという主張は、検察官の主張に対する積極的な抗弁ととられるおそれがあります。積極的に抗弁しているというように取られると、「それじゃ、その証拠を示せ」という要求が出てくる可能性があります。少なくとも、ただ、犯人が別にいるというだけでは、何らの意味がないどころか、場合によっては、裁判員の印象を悪くするかもしれません。「犯人は別にいる」といっただけで、被告人に不利に判断するというのは、刑事裁判の原則には反しますが、その言い方次第では、被告人に悪く取られるということです。

被告人・弁護人が別の人物を真犯人として名指ししたことが問題になった事件

 過去に、弁護人が被告人以外の人を真犯人として名指ししたことが問題になった事件があります。いわゆる丸正事件名誉毀損事件です。丸正事件は、丸正運送店の主人が殺害されたという事件で、トラック運転手と運転手助手の2人が被告人となり、無期懲役が確定した事件です。この事件の弁護人、正木ひろし弁護士と鈴木忠五弁護士で、2人とも刑事弁護の高名な弁護士でした。2人の弁護人は、上告趣意書で被害者の遺族を真犯人であると主張し、記者会見でも、真犯人としてその人たちの名前を挙げ、さらに、『告発−真犯人は別にいる』という本を出版して、そこでも、その人たちの実名をあげて真犯人として名指ししました。
 真犯人として名指しされた人たちは、両弁護人を名誉毀損罪で告訴し、両弁護人は名誉毀損罪で起訴されました。正木・鈴木弁護人は、被告人以外の人間が真犯人であると広く社会に報道し、世論を喚起して被告人を無罪とするための証拠の収集に協力を求め、あわせて、最高裁の職権による有罪判決破棄の道を開くために、あえて被害者の遺族を真犯人として公表したと主張しました。これが弁護活動として正当化される行為であるかが問題になったのです。

1979年3月23日の最高裁決定

 最高裁は、被告人らの無罪を得るために「当該被告事件の訴訟手続内において行つたものではないから、訴訟活動の一環としてその正当性を基礎づける余地もない。すなわち、その行為は、訴訟外の救援活動に属するものであり、弁護目的との関連性も著しく間接的であり、正当な弁護活動の範囲を起えるものというほかはない」として、正木弁護士らの行為について名誉毀損罪が成立すると判断しました。
 この最高裁決定については、弁護活動を訴訟手続内に限定している点に対して批判がありますが、その点はひとまず置くとして、この最高裁決定によっても、少なくとも、訴訟手続内の主張である限りでは、被告人以外の人を真犯人として指摘することは、弁護活動の一環であると認められます。
 ただし、弁護活動の一環であるとしても、適切な弁護活動であるかは、また別の問題です。問題はどのような場合に真犯人の名前を挙げるかです。丸正事件の場合には、最高裁判所の段階で、いわば窮余の一策として被告人以外の人を真犯人として公表したのです。それによって、被告人に有利な証拠を収集する目的がありました。逆に言えば、被告人を無罪にするための証拠集めに苦慮していたということです。
 鳥取の事件の場合には、これとは違い、弁護人の冒頭陳述で真犯人として被告人以外の人物を名指ししました。

真犯人の名前を挙げることの効果

 テレビの法廷ドラマなどを見ていますと、弁護人が被告人以外の人を指して、「犯人はこの人です」と主張する場面がよく出てきます。見ている者は、エッと思いながら、その弁護人の種明かしの見事さに「カッコイイ」などと感じて満足しています。これはドラマだからで、場合によっては、観衆は、その前から被告人以外の者が犯人ではないかと思わせられており、「やっぱりあいつか」というようなことで感心させられるのです。
 しかし、実際には、こうはいきませんし、また、ドラマでも、弁護人が「犯人はこの人だ」と指摘した後、「しかし、何も証拠はありません」ということを言えば、がっかりするでしょう。
 弁護人が被告人以外の真犯人を名指しすると、事実上、そのための証拠を出さないといけなくなるでしょう。法的には、弁護人はそのような義務はないのです。しかし、まったく裏付けなく真犯人の名前をあげた場合には、弁護人の言うことは信じられないということになります。とくに、裁判員に対しては、悪い心証を与えてしまうでしょう。

被告人質問について

 鳥取事件の弁護人は、当初は、被告人質問によって名指しした人物が真犯人であることを証明するという方針を表明していました。しかし、この被告人質問も撤回し、結局、真犯人性を示す証拠は、格別何も提出しないで終わりました。
 英米では、被告人は証人適格が認められるので、宣誓をして証言をすることができます。そのような制度を導入すべきだという意見もあります。しかし、日本の現行法では、被告人は証人となることができません。
 被告人質問では、被告人は、当事者として質問を受けるので、証人ではありません。しかし、そこで言った言葉は証拠とされます。その点で、被告人質問というのは性格があいまいなものです。それだけに、被告人質問をするかどうかは、かなり慎重な判断を必要とします。被告人が信頼できるほどの答えをするならば、プラスになるでしょうが、十分に説得的な話ができず、検察官による質問で、しどろもどろになったりすると、被告人の言うことは信用できないということになり、かえって不利になります。
 鳥取事件では、当初すると言っていた被告人質問をとりやめたのは、場合によっては、被告人の応対次第では、不利になることがあると思ったのでしょう。このように、弁護方針を変えるということもあり得ます。
 したがって、被告人質問を取り下げたとしても、それを不利益に扱ってはいけないのです。しかし、一旦はするといい、それによって別人が真犯人であることを証明すると主張していた場合には、不利に作用する可能性があります。

『合理的な疑い』

 鳥取事件の弁護人は、検察官側の立証が有罪とするには十分でないので、被告人質問をする必要がないと述べたとのことです。それならば、なぜ最初から検察官の証拠の不十分性をつくという形で弁護をしなかったのか、ということが問題になります。
 最初から、そのようにしていれば、きわめて原則的な弁護活動と評価されるでしょう。
 フリードマンの『合理的な疑い(A Reasonable Doubt』という法廷小説では、弁護人は一切反証をあげず、もっぱら検察官側の証拠の問題点を突くという形の弁護活動をしています。まさにこれと同じで、弁護人は、検察官の証明に対して「合理的疑い」を投げかけるだけでいいのです。それが原則的な弁護活動であり、それによって、悪い心証を抱かれるということはないはずです。
 しかし、実際には、それでいいのかという不安が出てくるでしょう。先の法廷小説の弁護人も、途中から反証を挙げる活動に切り替えています。もっとも、その反証も、被告人は犯人ではないということを示す証拠を提示するという範囲にとどまっています。反証を提出するにしても、それでよいのです。しかも、それさえ必要がないというのが、刑事裁判の原則です。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。