【村井敏邦の刑事事件・裁判考(14)】
名張毒ぶどう酒事件再審請求棄却決定について(2)
 
2012年7月2日
村井敏邦さん(大阪学院大学法科大学院教授)

前回からの続き

最高裁の決定

 最高裁は、奥西さんが提出した新証拠5つのうち、一つを除いて、原判断を弾劾するほどの証明力をもたないとしました。しかし、新証拠3、すなわち、「犯行に使用された毒物には、トリエチルピロホスフェートが含まれていないことを明らかにし、本件毒物が同物質を含むニッカリンTでなく、同物質を含まない別の有機燐テップ製剤であった疑いがあるとするJ作成の鑑定書、K作成の鑑定書等」については、原決定が、本件毒物にはニッカリンTに含まれているべき成分が含まれていない可能性があることを認めながら、試験の際には、たまたま「それを検出することができなかったと考えることも十分に可能であると判断したのは,科学的知見に基づく検討をしたとはいえず、その推論過程に誤りがある疑いがあ」るとしました。そして、「いまだ事実は解明されていないのであって、審理が尽くされているとはいえない。これが原決定に影響を及ぼすことは明らかであり、原決定を取り消さなければ著しく正義に反するものと認められる。」として、名古屋高裁に事件を差し戻しました。

最高裁決定の問題点

 凶器である毒物が自白にあり、奥西さんが所持していたニッカリンTでないということになると、自白の信用性は根底から失われ、奥西さんの犯人性が否定される、少なくとも、その点についての合理的疑いが生じます。最高裁が、新証拠3についての控訴審の判断は非科学的とまで言っているところからするならば、新証拠3の新規性・明白性を認めたと見ても良いはずです。そうしなかったのは、検察官の反論があるからだとしていますが、検察官の反論も科学的根拠を示したものではありません。もしこの点に議論を継続する必要があるならば、再審を開始した上で行うべきでしょう。検察官にもう一度調べ直させるために差し戻すというのは、再審請求段階でやるべきことではありません。
 本来ならば出るはずの成分が出ないことに科学的根拠があるか否かを、差戻審で検討せよという命題ほど、困難な命題はありません。
 このような差戻し決定を受けた名古屋高裁ができることは、出ないことはそのような成分がないことだとして、結局、事件で使われたのは、奥西さんの自白とは異なる別の薬品であったとするか、無理な推論を重ねて、検察官側の主張に根拠があることを示す以外にないわけです。
 このような事態になったということは、再審請求人から提出された新証拠によって確定判決がした認定事実に合理的な疑いが生じたことを示しているにほかありません。最高裁は、差し戻しをして、検察官に無理な証明をさせ、無用な時間を費やさせてしまいました。

差戻審決定

 最高裁が差戻審に対して課した課題は、確定審において行われた試験で、ニッカリンTに含まれるはずの成分が、事件の凶器となったぶどう酒からは検出されなかったことが、弁護人が言うように、本件ぶどう酒にはニッカリンTが含まれていなかったためなのか,あるいは,検察官が主張するように,ぶどう酒にニッカリンTが含まれていたとしても,濃度が低かったなどのために、検出されなかっただけなのかを解明するため、申立人側からニッカリンTの提出を受けるなどして、事件直後の検査で用いられたものと近似の条件で当時の方法による試験(ペーパークロマトグラフ試験)を実施する等の鑑定を行うなど、ということです。
 差戻審では、その課題を果たすべく、当時の方法による鑑定をしようとしたですが、鑑定人を求めることができませんでした。ここでまず、最高裁の要求を満たすための条件が一つ欠けました。
 違った方法で実験をした場合に、その結果が、当時の実験による結果と同じであっても、違っていても、なぜそうなのかを推論を交えて説明しなければなりません。余計な説明が増えます。
 その上に、その鑑定結果によっても、ぶどう酒からはニッカリンTが検出されませんでした。鑑定は検出されない理由について、縷々説明し、裁判所は、その説明は一応の合理性があるとしています。しかし、その説明はそのようにも理解できるというにすぎず、最高裁のいう「科学的」というものではありません。
 さらに、差戻審は、当時の実験では、対照のために調べられたニッカリンTから検出された成分は、本来の成分とは違って、実験の過程で作られたものが検出されたのだという、大胆な仮説を立てています。しかし、このようなことは、差戻審で行われた鑑定でもいわれていないことです。しかも、あくまでも裁判所の独自の推理でしかなく、これこそ証拠に基づかない「非科学的」なものです。
 裁判所は、最後は、「そもそも旧証拠における薬毒物鑑定においても、本件ぶどう酒に混入された毒物(農薬)が、有機燐テップ製剤であるというにとどまり、ニッカリンTであるとの同定までするようなものではなかったところ、新証拠3によっても、犯行に用いられた薬剤がニッカリンTではあり得ないということを意味しないことは明らかである」として、確実にニッカリンTではなかったことの証明を再審請求人に要求しています。これは、明らかに再審請求人に無罪証明を求めるもので、白鳥決定が再審にも「疑わしきは被告人の利益に」原則が適用されるとした趣旨に反しています。

「疑わしきは被告人の利益に」

 名張事件では、今回の再審請求まで、弁護人は、問題となる有罪判決の柱を一本、一本倒す努力を積み重ねてきました。第5次再審請求では、有罪判決の証拠の中心にあったと考えられる歯痕鑑定の信用性に疑いを生じさせました。しかし、奥西さんの歯痕であっても矛盾しない程度の証明力はあるとして、再審請求が棄却されました。今回も、上記のように、毒物がニッカリンTでない可能性をも示すことに成功しました。しかし、裁判所は、ニッカリンTではなかったという証明はされていないとして、有罪判決を維持しました。一体、裁判所は、白鳥決定の意義をどう考えているのでしょう。差戻審の判断を覆すためには、奥西さん以外の人が犯人であることを証明する以外にありません。まるで白鳥決定以前の世界に戻り、「糸を針の穴に通す以上に狭き門」として再審の門が立ちふさがっているようです。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。