【村井敏邦の刑事事件・裁判考(12)】
元プロボクサーと再審請求のゆくえ
 
2012年5月7日
村井敏邦さん(大阪学院大学法科大学院教授)

1 映画「ザ・ハリケーン」

 1999年に、一本のアメリカ映画が公開されました。「ザ・ハリケーン」です。この映画は、「ハリケーン」というリング名をもつ世界ウォルター級ボクサー、ルービン・カーターさんが、1966年6月17日、アメリカ合衆国ニュージャージー州パターソンで起きた強盗殺人事件の犯人として検挙され、翌年殺人罪で終身刑を言い渡され、受刑中も冤罪を主張して、1985年11月7日、連邦地方裁判所で有罪判決を覆すまでの軌跡を描いた、実話に基づいたドラマです。映画では、刑務所の中で冤罪を訴えて書いた自伝を古本市で見つけたカナダの黒人少年との親交が再審への道に通じたことを描いて、深い感動を呼んでいます。
 ルービン・カーターさんの事件では、連邦地裁は、人種差別と嘘発見器の結果の被告人への秘匿を適正手続きに違反するとして、カーターさんの人身保護請求を認め、カーターさんらを即時釈放しました。映画は、ここまでで、訴訟は終わっていますが、実は、この後、即時釈放を認めたことについて争われ、カーターさんが完全に釈放されるまでには、若干の年月を経なければなりませんでした。

2 袴田事件

 アメリカでルービン・カーターさんが逮捕された強盗殺人事件とほとんど同じ頃(1966年6月30日)、日本でも、静岡県静岡市のみそ製造会社で一家4人が殺害され、家屋が放火される事件が発生し、同年8月に、フェザー級の元プロボクサー袴田巌さんが強盗殺人容疑で、静岡県警によって逮捕されました。
 袴田さんは、取調べでは自白をし、同9月、静岡地検は強盗殺人罪などで起訴しましたが、同11月の初公判では無罪を主張し、以後、一貫して無罪を主張しています。しかし、1968年9月、静岡地裁は死刑判決を言い渡し、さらに、76年5月、東京高裁が控訴棄却、80年11月、最高裁が上告棄却して、死刑が確定しました。
 確定判決の有罪証拠の柱は、事件当日、袴田さんが着ていたと考えられる「5点の衣類」が67年8月にみそ製造会社工場のタンクから発見され、その衣類に付着していた血痕が、袴田さんと被害者のものと同一であるということです。
 81年4月、袴田さんは静岡地裁に再審請求をしましたが、94年8月、地裁が請求棄却しました。弁護団は東京高裁に即時抗告したのですが、2004年8月、東京高裁は即時抗告棄却し、08年3月には、最高裁が特別抗告を棄却しました。有罪判決確定後、袴田さんは精神と身体を病んで、自ら再審請求を継続することができない状態になったため、袴田さんの姉秀子さんが、同年4月に第2次再審請求を行いました。再審請求は、有罪判決を受けた本人が行うのが原則ですが、本人が死亡したり、心神喪失の状態にある場合には、その配偶者、直系親族、兄弟姉妹も申し立てることができます。

3 DNA鑑定の結果

 袴田事件の確定審では、みそ製造工場のタンクから発見された「5点の衣類」が、事件当時、袴田さんが着ていた衣類であり、その衣類に付着していた血痕の多くに被害者のものが見られ、衣類中、白色片袖ワイシャツの肩の部分に付着していた血痕が袴田さんのものと一致すると判断されました。控訴審では、衣類の試着実験が行われ、ズボンは袴田さんの腰回りには小さすぎて履けないという結果になり、弁護人は、衣類は袴田さんのものではないと主張しましたが、裁判所は、みそタンクに入っている間に縮んだとして、弁護人の主張を排斥しました。弁護人は、また、そこに付着していた血痕は袴田さんのものではないとも主張していましたが、血液型鑑定を根拠に袴田さんのものだとされ、有罪が確定しました。
 第2次再審請求審では、2010年9月 静岡地検が請求人からの申立てに応じて、初めて未提出証拠を開示しました。弁護人は、開示された証拠を検討し、新たに衣類のDNA鑑定を請求しました。2011年8月、静岡地裁は、衣類のDNA再鑑定を決定し、2012年3月、DNA再鑑定のために、袴田さんは血液を提供しました。
 2012年3月13日、弁護側推薦の鑑定人は、確定判決が袴田さんのものとして、有罪の決め手のひとつとした衣類の付着していた血痕のDNAが、袴田さんのものと一致しないという鑑定結果を報告しました。さらに、同月16日には、検察側推薦鑑定人も、袴田さんの血液のDNA型と一致しないという結論を出しました。

4 再審開始になるか

 犯人と袴田さんとの同一性を示す血痕のDNA型が、検察官推薦鑑定人、弁護人推薦鑑定人いずれの鑑定によっても、そろって「不一致」の結果になったので、弁護団では、「難しい議論なく再審を開始できる基盤は整った」としています。今後は、鑑定人の鑑定結果の信用性について、鑑定尋問などを通じて検討が行われるとのことですが、再審開始に向けて、かなり近づいたことは疑いがありません。
 袴田さんは、すでに76歳の高齢であるうえに、肉体的、精神的に相当程度弱っています。確定判決が基礎にした有罪証拠に疑問が出てきた以上、一日も早く再審を開始すべきでしょう。
 現在、再審開始を待っている人の中には、袴田さんのほか、名張事件の奥西さんのように、80歳を超える高齢の人がいます。このような人にとっては、再審開始の遅れは取り返しがつかないことになるおそれがあります。慎重な検討も必要でしょうが、そのために、刑務所の中で死を迎えるという結果が生じるとすれば、国の責任は重大です。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
一橋大学法学部長、龍谷大学法科大学院教授、大阪学院大学法科大学院教授を経て、現在一橋大学名誉教授。法学館憲法研究所客員研究員。