検察審査会  
2010年8月30日
大出良知さん(東京経済大学現代法学部教授)

 鳩山前首相や、小沢民主党前幹事長の政治資金をめぐる事件の議決で検察審査会(検審)が注目を集めています。その存在すらあまり知られていなかった検審は、60余年前に、「検察の民主化」を目指して設立されました。
旧憲法の下での旧刑事訴訟法の時代から検察官は、事件を刑事裁判の対象にするかどうかという起訴、不起訴を決定する絶大な権限を独占し、しかも起訴するか否かの幅広い裁量権(起訴猶予権限)をも掌握していました。そのため、戦前・戦中に、治安維持法体制の下で、国家刑罰権の行使によって発生した多くの人権侵害には、強力な権限を秘密主義的に運用していた検察官の責任が大きかったからです。
ですから、敗戦直後から民間の法律家や法律家団体からは、不法逮捕や拷問を根絶するための方策として職権濫用罪に関する起訴独占主義の修正や、職権濫用の罪については弁護士会にも公訴権を与えるという主張が提起されてもいました。
連合国総司令部も、初期の対日占領政策の基調をなしたとされる1945年10月15日のマッカサーの「五大改革の指示」の第4項目で、「秘密の検察及びその濫用が国民をたえざる恐怖に曝してきた諸制度の廃止」をあげていました。民主化の方策としては、さらに民間からの提起も含め、検事の任期制、国家機関による公訴権限の独占に例外を設け私人にも起訴権限を与える、公訴提起の権限について公正を担保するための制度を創設する、国民に起訴権限を委ねる大陪審を導入する、検事の公選制と地方分権化、等々の提案が行われることになりました。
そして、連合国総司令部から日本政府に示されたのが、英米の制度に倣った検察官の公選制と大陪審の導入でした。大陪審は、起訴・不起訴の判断を、国民の判断に委ねようという制度です。しかし、この構想は、当時の検察官はじめ司法当局者等の強い抵抗に遭うことになりました。
その結果、検事公選制については、法務大臣の任命する11人の有識者が、検察官の罷免の勧告や適格の審査を行う検察官適格審査会という制度に。大陪審が、検察審査会という日本独特の制度になりました。検審の審査は、半年任期の11人の審査員が行いますが、その選任は、衆議院議員選挙の選挙人名簿から「くじ」で選ぶという民主的な方法がとられました。しかし、権限は、限定されることになりました。検察官の不起訴処分の場合にのみ、その妥当性を事後的に審査できるだけになりました。また、不起訴に問題があるという判断に至ったときにも法的拘束力は与えられませんでした。
検審は、審査の上、不起訴が相当であれば、「不起訴相当」という議決をしますが、不起訴に問題があるとなれば、さらに捜査を尽くすべきとする過半数で決められる「不起訴不当」か、あるいは3分の2の多数で起訴すべきであったとする「起訴相当」の議決をすることになります。その後2者の議決が検察官の判断を法的に拘束することにはしなかったのです。その意味で、出発の時点から、「公訴権の実行に関し民意を反映せしめてその適正を図る」(検審法1条1項)には、決して十分ではなかったといわざるを得ませんでした。
十分でなかったのは、権限だけではありません。他に適当な機関がなかったため、管轄が裁判所に委ねられることになりましたが、裁判所には異質の組織の広報を十分に行う財政的余裕も意欲もなく、周知度をあげることにもなりませんでした。
そのような中、突然の「検察」審査会からの封書による呼び出しに、戸惑う国民がほとんどでした。それでも、審査員に選ばれた国民の多くが、地道に誠実に職務にあたってきたことが確認されています。実は、その実績が、裁判員制度実現への導線にもなったといって良いでしょう。
とはいえ、「起訴相当」の議決といえど、いったん不起訴にした検察がその議決に従うことは例外であり、早くから法的拘束力を与えるべきだという意見が主張されてきました。
それで、昨年の裁判員制度のスタートと同時に、「起訴相当」の議決に法的拘束力を認める改正も施行されました。「起訴相当」の議決にもかかわらず検察が再度不起訴にし、検審が二度目の「起訴相当」の議決を行った時には法的拘束力が認められる、起訴が強制されることになったのです。
ようやく認められた法的拘束力は、早速検審の意義を高める機能を果たしはじめています。今年の1月になって、2度目の「起訴相当」の議決のあった「明石歩道橋事件」。3月にやはり2度目の「起訴相当」議決のあった「JR西日本福知山線事件」。4月の鳩山首相(当時)の「不起訴相当」議決。そして同じく4月の小沢一郎民主党幹事長(当時)に対する1度目の「起訴相当」議決、また、小沢氏についての幹事長を辞めた後の7月に、もう1件についての「不起訴不当」の議決と相次ぎ、いずれも「公訴権の実行に関し民意を反映」させるという目的に適ったものとして、大きな関心を呼んでいます。
その理由は、これらの事件がいずれも公的職務に関わっての刑事責任の問題であり、いわば国民に対する説明責任が問われているからでもあるからでしょう。このような事件の扱いにこそ、民意が反映されて然るべきだと思われます。国民が、検察の密室での事実上の最終判断ではなく、裁判所による公開の場での責任の有無の判断を望むのは、当然だからです。
もちろん、だからといって、被疑者の人権が蔑ろにされて良いということはなりません。また、起訴されること自体が人権侵害につながるような刑事手続の運用を改める必要もあります。検察官が、事実上裁判所の役割を侵害するように、しかも密室で、公訴権を運用してきたことが、無罪推定の原則を意味のないものにし、任意捜査の原則を無視した刑事手続にしてきてしまったといって良いでしょう。あくまでも有罪・無罪の最終判断は裁判所が行うべきことで、それまでは無罪推定の原則にしたがった捜査、公訴提起が行われなければなりません。
その意味では、検察の公訴権限のあり方への民意の反映は、刑事手続のあり方を変え、公訴権限の最終的審査者である裁判所の国民との関係での対応のあり方を考える契機にもなると思いますし、そうする必要があります。
国民が、裁判員裁判同様、検審にも積極的に関与されることを大いに期待したいと思います。

 
【大出良知氏のプロフィール】
九州大学法科大学院長などを経て、現在東京経済大学現代法学部長。専攻は刑事訴訟法、司法制度論。
『裁判を変えよう−市民がつくる司法改革』『長沼事件 平賀書簡−35年目の証言、自衛隊違憲判決と司法の危機』など著書多数。