市民の司法参加の過去・現在・未来  
2009年10月5日
村井 敏邦さん(龍谷大学法科大学院教授)
司法参加の過去

裁判員裁判法が本年5月21日に施行され、この日以降に起訴された事件のうち、裁判員対象事件となる死刑または無期刑が選択されうる事件、または、傷害致死罪などの故意によって死が引き起こされたとされる事件が裁判員裁判として審理される。
日本で、これまで市民の司法参加がなかったわけではない。戦前の1928(昭和3)年から1943(昭和18)年までの15年間、陪審裁判が実施されていた。陪審員の資格が高額所得者の男性に限定され、陪審員の出した評決に対しては、裁判長が賛成できない場合には、もう一度別の陪審員を選ぶことができたなど、制度にはいろいろと問題はあった。被告人が陪審裁判にするか裁判官の裁判にするかを選択できたためもあって、陪審裁判の数はだんだん少なくなっていき、戦争の激化に伴い、1943年に停止された。停止はされたが、廃止はされず、現在まで陪審法は停止されたままである。
戦前の陪審裁判については、日本人の国民性にあっていなかったなどのマイナス評価もあるが、陪審員経験者の感想もそれほど悪いものではなかったようである。また、実際の結果を見ても、たとえば、殺人罪についての無罪率を裁判官による裁判の場合と比較すると、裁判官による裁判が1%であるのに対して、陪審裁判では33%と格段に高い。官憲主義の戦前であったことを考えると、市民の裁判のほうが圧倒的に無罪率が高いというのは驚きである。
実は、この点が官憲には許しがたいところであって、被告人には陪審裁判を選ばないように働きかけ、また、国民性に合わないなどの悪評価をあえて流す原因となった。
しかし、無罪率が高いというのは、市民の意思が示されているということでもある。少なくとも、これをもって、戦前の陪審裁判は失敗であったという評価はできない。
司法参加の現在

戦後改革の中で陪審制復活の声もあった。しかし、先に述べたように、戦前の陪審法には戦後の民主主義という観点から見て、そのままでは実施できない問題点が多々あった。陪審制の実施は、その後の司法改革の大きな課題として残されてきた。
裁判それ自体への市民参加ではないが、検察官の不起訴判断に対して意見を述べる機関としての検察審査会は、広い意味での市民の司法参加の一形態と見ることができる。従来は、検察審査会が起訴相当の議決をしても、検察官が不起訴処分を繰り返すことができた。この点が、この制度の最大の問題点と考えられていたが、検察審査会法の改正によって、起訴相当の議決に対して再度、不起訴処分を検察官がし、再審査の結果、検察審査会が起訴すべきと考えて起訴議決した場合には、この結論は拘束力を持ち、起訴されたものとして扱われることになった。
検察審査会の制度は英米の大陪審を参考にして作られた。起訴処分についての審査権がないので、起訴・不起訴の判断についての市民参加の完全な形態とはいえないが、その意見を重視する方向にあるという点では、市民参加の流れを強化するひとつの方向と評価することができよう。
5月から実施された裁判員裁判は、より本格的な司法への市民参加の形態である。事実認定だけではなく法の適用、量刑判断にまで裁判員が関与するという点では、英米の陪審制よりも市民参加の程度は徹底しているという評価も可能である。
しかし、陪審制論者の中には、裁判員裁判に徹底的に反対という立場の人もいる。裁判員と裁判官が一緒になって判断するという点が問題だというわけである。裁判官が指導権を握って、素人の裁判員の主体的な判断が保障されないというのがその理由である。筆者も参加する市民の判断の自立性を確保するという点では、陪審制のほうが優れていると思う。その意味では、裁判員裁判の現実の運用の中で、これが現実的な問題として現れているかが、裁判員裁判を評価するひとつのポイントである。
現在まで13件が裁判員裁判によって審理され、刑が言い渡されている。これらの事件の審理と評議において、裁判員の自主性が確保されているか。実を言うと、この点の評価はそう簡単ではない。評議の内容については裁判員には秘密保持義務があって、発言が禁止されているからである。しかし、公判における裁判員の発言や判決後の記者会見における裁判員の感想からうかがい知るところでは、裁判官も裁判員の発言をしやすいような雰囲気を作るように努力しているようではある。
もうひとつの懸念は、犯罪被害者参加などの流れの中で作られた厳罰化傾向が裁判員裁判においてはそのまま反映されるのではないかという点であった。これまでの裁判経過を見るところ、一部に厳しい量刑が見られるが、全体として著しく重罰化の傾向だとは、必ずしも評価できない。
司法参加の将来

これからの裁判員制度を占うのは、まだ早すぎるが、市民の司法参加をより実効的にするために、上記のような現在までの実施状況を見た限りでの将来への注文をつけておこう。
これまでのところ、無罪が主張された事件の審理は、まだ行われていない。事実認定について裁判員裁判ではどのような結果になるかはわからない。筆者は、これまで、専門裁判官は、「なれ」によって「無罪推定」「疑わしきは被告人に利益に」という刑事手続上の大原則にかえって鈍感なところが出てきており、そこが専門裁判官だけによる裁判の問題となっていたと指摘してきた。裁判員には、そうした「なれ」はない。一生に一度あるかないかの機会であるから、事件に対して真剣に立ち向かうことになる。そこには、裁判官以上に刑事手続上の大原則に対しても、鈍感ではいられないところがあるはずである。筆者は、裁判員裁判にはそこを期待している。ただし、事件の審理にあたって、このような刑事手続上の大原則を踏まえることの大切さを指摘するものが、いなければならない。一般的な形では、裁判官がその役割を果たすべきであり、そのためには、事実に争いのある事件では、評議に入る前に、英米の陪審裁判のように、裁判長の「説示」という形で、事実に即して具体的にこの大原則の意義を裁判員に説明すべきである。評議が公開されていない以上、公判でこのような説示を行うべきである。
裁判長にその役割を果たさせるためには、弁護人が評議のあり方について、無罪推定の法理を含めて最終弁論において説明し、評議に入るまでにそのことを徹底するように裁判官に要求すべきであろう。
この点にも関わるが、評議がまったくのブラックボックスになっているのは問題である。少なくとも、裁判員の秘密保持義務は裁判員である限りにとどめ、裁判員から解任されれば、評議における議論についても話してよいということにすべきである。一旦裁判員になれば、一生秘密抱えて生きるべきであるのは、あまりにも過重な負担である。また、評議において、裁判官が指導していないか、裁判員の自主性が尊重されているかということを確かめようがない。この点は、早急に改善すべきである。
韓国では、陪審制度を2012年に本格的実施することを見据えて、2008年から試行的に実施している。筆者は、裁判員裁判の実施に当たっても、このような試行的実施方式をとるべきであったと思っている。制度というものは、完全によいとか悪いとかというものはありえない。裁判員制度も英米型陪審制とドイツ型参審制の妥協の産物である。とくに、陪審制論者からは不満の点が多い。私も陪審制論者であるから、裁判員制度には不満な点が多くある。しかし、だからといって、制度が一旦発足した以上、ただ反対というだけでは制度はよくならない。よりよいものにするためには、問題点を改良することができる限りおいては、よりよいものにする努力はしなければならない。試行的実施ならば、そのような改良の努力はいっそう容易であろう。しかし、そのような形で出発しなかった以上、これまた試行をしなかったということを非難するだけではなく、運用によって改良できる限りのことを行い、立法によって手直しが必要なところについては、部分的法改正をすることもできよう。
 
【村井敏邦さんプロフィール】
龍谷大学法科大学院教授、同大学矯正・保護研究センター長、本年5月弁護士登録