対談「裁判員制度の意義を考える」
その五「裁判員制度の改革課題」
 
2009年9月21日
大出良知(「司法改革・市民フォーラム」代表・東京経済大学教授)
伊藤真(法学館憲法研究所所長・伊藤塾塾長)
大出
    裁判員裁判がはじまりましたが、裁判員は評議の内容などを話してはいけないとされ、いわゆる守秘義務が課されています。それは、これまでのプロの裁判官に課されている守秘義務を引き写したものです。もちろんプライバシーに関わる事項については、守秘義務があることは、当然なのですが、問題は評議の中身を秘密にしなければならない理由は何かです。結局、多数決を採用していることで、評決が割れたときに、裁判の権威を守るということでしかないように思います。
伊藤  裁判員のプライバシーなどを守ることが強調されすぎています。裁判員は裁判所のお客さんではなく、裁判という権力の担い手として裁判に参加するのですから、やはり国民から監視される対象になるのです。
私は、裁判員は裁判のことを何でも語れることを原則とし、その上で他の裁判員の個人情報などが漏れることのないようにするべきだと考えます。そうした方が「開かれた司法」をアピールすることにもなります。
そもそも、守秘義務を課しても自分の信念から語る人がでてくるのではないでしょうか。
大出  刑事裁判が権力作用であることは間違いありませんから、説明責任が求められます。ですから、理由が示されているわけですが、評議の結論としての理由に、経緯の全てが出てくることはありませんから、責任を負える範囲で経緯を明らかにするのはいっこうに構わないと思います。
自分が裁判でどのように考えたのかを話したい、国民に対して説明責任を果たしたいと考える裁判員は多くいると思いますし、その情報は国民も知りたいことです。
伊藤
    憲法上、あいまいな理由で国民の言論の自由を制限することは許されません。
裁判員制度に関わる憲法上の問題としては、裁判員になることを国民に強制することは憲法の「思想・良心の自由」に違反するのではないかという問題があります。
大出  その点はおおいに議論したいところです。
この問題は、国民主権原理の下で、国民が司法に対する権利を行使し、負担も平等に分ち合っていこうという、国家機構のあり方に関わる問題です。ですから、全員に参加を求めること自体に問題はないと思いますが、制度の導入にあたって、その他の国民の権利にどう配慮するのかを具体的に考える必要はあると思いますが、いかがでしょうか。
伊藤  国民の裁判への直接的な参加は憲法には明記されていません。
大出  国民主権原理からすれば、立法等への参加と形態が違うだけだと思います。ですから、特に明記する必要はないと思いますが、規定がないわけではない。戦前に陪審法ができ、司法への国民参加が実現しました。日本国憲法はそのことをふまえ、国民は「裁判官の裁判」を受けるとしていた大日本帝国憲法を改正し、国民参加を前提として、「裁判所の裁判」を受けるとしました。その流れをふまえるならば、日本国憲法の下でいち早く司法への国民参加制度が構築されるべきでした。戦後の刑事司法の問題点は、いわば憲法通りの刑事司法制度が構築されなかったことにあり、むしろ違憲状態を解消したということではないでしょうか。
伊藤  そうだとしても、裁判員をやりたくないという人に「思想・良心の自由」を侵害する形での強制は許されません。
「思想・良心の自由」の侵害をどのように認定すべきかは難しい問題ですが、その人の人間性に深く関わることになるのかどうかを判断の基準にすべきとの考え方が有力です。たとえば、学校の卒業式などでの教員への「君が代」強制は、自らの人間性に関わることとして拒否する自由は認められるべきだと考えます。国民主権原理を理解しつつも、“人を裁くことは自らの人間性に関わることとしてできない”という人に対して、いわば良心的裁判員拒否権は認められるべきです。
大出  人々が国家というものに所属し、その権利を行使しつつ、主権者として必要な負担も分かち合っていくことが、実はよりよい社会をつくりあげていくのだという理解をどう広げるかということですね。
伊藤  いわば民主主義の成熟度が高まっていく中で、司法への国民参加や裁判員制度も本格的に機能していくことになるでしょう。
大出  “死刑制度があるから裁判員にはなりたくない。人に死刑を宣告したくない”といって裁判員制度に反対する声があります。私は、それは違うと思います。それならば死刑制度自体に反対すべきです。多くの国民が死刑制度を容認していますが、その是非を真剣に考えて欲しいと思います。そして、裁判員は量刑においても自らの良心で判断すればよく、死刑を宣告しないということもできるのです。
伊藤  その通りだと思います。裁判員制度がはじまって、いま多くの人が死刑制度というものを考え始めました。これはよかったと思います。
ところで、裁判員裁判で第一審判決が出された後に検察官が上訴できることになっていますが、この点も裁判員や国民が訝(いぶか)しく思うところです。自分たちが適正に判断しても、結局二審ではプロの裁判官が独自に審理し結論を出す、これでは第一審は何だったのか、という気持ちになってしまいます。
大出  その通りだと思います。この点は制度設計にあたった内閣の検討会の場で私自身も主張し、基本的には共通理解になったのですが、第二審は第一審判決を破棄し、第一審に差し戻しすることはできても、自判することは適当でないということです。要するに、基本的には裁判員裁判で有罪・無罪と量刑を決めるというのが裁判員制度の趣旨です。実際にそのようになっていくよう監視しつつ、理解していただけるようにしたいと思います。
伊藤  裁判員制度の今後の課題として、行政事件や民事事件にも国民の常識的な判断を反映させていくこともあるのではないでしょうか。
大出  国家が国民に刑罰を課すことの可否と有罪の場合の量刑に国民の常識を反映させることから裁判員制度が始まることになりましたが、おっしゃるとおり、今後はもっと広げていくことが課題になるでしょう。
いずれにしても裁判員制度にはまだまだ課題があり、裁判員裁判は試行錯誤が繰り返されることになるでしょう。その動きをチェックし、必要な提言をしていく必要があると思います。